月齢と旧暦についての基本知識

日本の暦の歴史 

旧暦とは、月の満ち欠けで日にちを数える仕組みのことです。空を見上げて月の形で確認できるわけですから、わかりやすくて便利です。
大昔の人は月の形が毎日少しずつ変わり、しばらくするとまた元に戻ることを知り、その期間を「ひと月」として日々の流れや積み重ねを認識しました。また「ひと月」を12回繰り返すと季節が元に戻ることも知りました。それが一年です。

でも月の満ち欠けは約29日半で繰り返されるので、12回繰り返したときには本当の一年(365日)にちょっと足りず、では13回とすると365日を大分過ぎてしまいます。どっちにしてもそのままでは毎年少しずつ季節がずれていくわけですから困りますね。そこで実際にはちょっとした工夫をして暦を作っていったのです。

以下はそれらの仕組みの説明です。

手っ取り早くまとめてほしい!!


 月の形とは、月が太陽に照らされて明るくなっている部分を地球から見たときの形のことです。

 次の図では観察者は昼から夜に変わる境目(日没時)にいます。太陽は遥か西の方角から地球と月(小さい円)を照らしています。
 このとき月も西にあれば地球からは月の照らされた面を見ることは出来ません。(月は実際はもっと遠くに位置しています。)

 

 月が南や真上にあれば、右半分の半月が見えます。
 月が東にあれば、正面から太陽に照らされた満月となります。

 地球は一日一回回転しています。月は地球の周りを同じ方向に回っているのですが、ごくゆっくりなので、地球から見て太陽が動く速さと月が動く速さは大体同じで、月の形は一日中ほとんど同じです。 

 しかし厳密には月は太陽が進むより少し(1日平均50分弱)遅れて進むように見えますので、月の形は毎日少しずつ変わっていきます。(月の満ち欠け)
 

 例えばある日の日没時に月が下図のように地球からは明るい部分が見えないとしましょう。

       この時見える月の形 (明るい空に月は見えない)

 大切なこと:この状態にある月のことを「新月」と言います。ここからまた新しく月の満ち欠けが始まるという意味です。

 すると地球が丸1回転した次の日の同じ時刻には月は地球の回転方向にやや進んだ位置にある(それだけ太陽より遅れているように見える)ので、明るい部分のほんの縁が見えることになります。

       この時見える月の形 


 数日経てば月はもっと進んだ位置(太陽より遅れた位置)にあって、明るい部分がもっと見えてきます。

       この時見える月の形 


 このようにして月の形は毎日少しずつ大きく見えるようになっていき、太陽の反対側に行ったとき満月となり、その後は今度はだんだん小さくなっていき、29日余りでまた見えなくなります。

 順番は 新月(見えない)・・右の三日月形・・上弦の半月・・満月・・下弦の半月・・左の三日月形・・新月・・です。

 月の形を新月からの日にちの数字で表わすと、新月は0、上弦は平均7.4、満月は平均14.8、下弦が平均22.1となります。この数字を月齢と言います。月齢は時々刻々と変化して24時間に1だけ進み、平均29.53(0.56程の幅がある)に達して0に戻ります。
 ちなみに、旧暦では月齢14.0の瞬間を含む日を15日と言い、その夜を十五夜と言いますが、その夜の月の形が完全な満月とは限りません。

 月齢は太陽、月、地球の位置関係によって決まりますから、国や地域で異なることはありません。日本で満月が昇ったなら、その日遅れて昇るヨーロッパやアメリカでも満月です(月の出の時刻は異なりますから、月齢も僅かに進んでいますが)。
 なお、同じ時刻(同月齢)に地球の東の端と西の端で眺める月は僅かに異なる角度から見ていることになります。しかし地球と月との距離は上の模式図に描いたよりずっと大きい(地球直径の平均30倍ほど)ので、見える形はほとんど変わりません。

 月と地球と太陽の位置関係は日食と月食の現象に関係します。日食・月食について

月齢と旧暦について

 明治の初めまで使われていた旧暦では、月齢0になる瞬間を含む日を毎月のついたちと定めるため、日付と月齢が連動していました。
 このサイトの月齢調べカレンダーは月齢0の瞬間を含む日を「月齢0の日」として表示していますから、どの日でも単純に表示の月齢に1を足せば旧暦の日付となります。

 ちなみに、満月の瞬間(時期によって月齢13.9〜15.6の間)はおおよそ旧暦の十五日から十七日午前までのいずれかの時刻となります。

 さて、ここで少し注意してください。月齢29の日は旧暦三十日に当たりますが、もしその日のうちに月齢が最大(平均29.53)に達すると、(月齢が最大に達すると0に戻るわけですから)その日は結局「月齢0の日」になってしまい、自動的に旧暦ついたちと決まってしまうのです。つまり三十日は存在しないことになり、二十九日の翌日がすぐに一日となるわけです。
 三十日まである月を大の月、二十九日で終るのを小の月といいます。


  (月齢29の瞬間が午後になるとき→大体その日は三十日)


  (月齢29の瞬間が午前になるとき→大体その日はついたち)



 これらの月が12ヶ月集まって1年になりますが、そうすると合計354日ほどにしかなりません。そのままでは暦と季節が大きくずれていってしまうことになりますが、実際には二〜三年に一度、1年が13ヶ月となるためその心配はありません。13ヶ月の年は何月かを二回続けることになります。その二回目の月を「閏(うるう)○月」といいます。七月のあとに閏七月があれば七夕を二回楽しめたわけです。

 旧暦は月の運行をもとにしたカレンダーですが、毎年太陽の運行に基づく二十四節気を基準に正月の位置を定める(時に13ヶ月の年を作る)ため季節との大幅なズレを防いでいます。このように陰(月)・陽(太陽)両方に依拠するカレンダーは、陰暦(太陰暦)ではなく陰陽暦(太陰太陽暦)と呼ばれます。ただし旧暦を俗に陰暦と呼ぶことはよく行われます。

厳密な意味での陰暦の代表はイスラム(ヒジュラ)暦です。1年は大体354日で少しずつ季節がずれていき、約32年で戻ります。(参考

 新聞に載っている月齢はふつうはその日の正午の値です。ですからこのサイトの月齢調べカレンダーに示されている数字とは最大で0.5の差があります。新聞の月齢を見て旧暦の日付を求めるには、例えば月齢7.3とあればその日のうちに月齢7.0の瞬間があるはずですから日付は八日、また月齢7.6とあればその日のうちに月齢8.0の瞬間があるはずですから日付は九日とします。ただし月齢29以上とあればその日のうちに月齢0の瞬間が来る可能性がありますから日付は三十日ではなく一日となるかもしれません。


まとめ

旧暦の仕組みをまとめてみましょう。                     基本知識はこちら

●旧暦とは?

 月の満ち欠けは新暦(太陽暦)の日付とは関係なく、新月(見えない)、満月(まん丸)、新月、満月・・・・と約30日周期で繰り返しています。
 ある年の例を図にすると・・・

 

 そして図で赤く示した範囲が旧暦の正月です。
 つまり、旧暦とは、太陽暦によって決まる二十四節気の

立春の前後でいちばん近い新月の日が元日で、次の新月の日を二月一日、その次を三月一日・・とする

 ものなのです。

一年のうちいちばん寒いという大寒を過ぎて初めての新月の日が元日、と理解してもいいでしょう。

●旧暦の基本的原理 上の分かりやすい言い方をもう少ししっかりと記述すると次のようになります。

 月が見えない新月(月齢0)の日をついたちとし、次の新月の前日までを一ヵ月とする。
 原則として二十四節気の「雨水」を含む月を正月とする。

 日付が月齢と連動していますから、江戸時代までの歴史上の日付を見ればその日のお月様の形が分かるわけです。

参考:
「大寒」=春分から春分までの期間の12分の10に当たる日。雨水の約一ヵ月前。冬至を過ぎ、北半球が冷え切った頃。
「雨水」=春分から春分までの期間の12分の11に当たる日。春分の約一ヵ月前。冬至から時間が経ち、北半球が温まり始めた頃。
 
二十四節気とは


●新暦と旧暦の正月・元日の時期とその意味

新暦の元日は毎年地球が冬至の位置から公転軌道上を10日ほど進んだ日になります。太陽に対する角度では約10度進んだところです。その由来は古代ローマの暦にあり、農耕を開始する時期の二ケ月前の時期に当たりますユリウス暦325年のキリスト教公会議で3月21を春分とすることが決定されて、元日の時期が現在のように定まりました。その日に月がどこに位置しているのかは年によって違います。
(グレゴリオ暦とローマ暦について
参照

一方、旧暦では二十四節気の大寒付近から雨水の間(角度30〜60° おおよそ気候が春に向かい始める時期)のどこかで、月が太陽と同じ方角にくる日(月齢0の日)を元日とします。その日に地球が公転軌道上のどこに位置するかは年によって少しずつ異なります。
 古今和歌集の巻頭に「年のうちに春は来にけり・・・」と詠まれているのは「まだ十二月なのに立春が来たのが面白い」という意味の歌ですが、立春(大寒と雨水の中間)が旧暦の十二月になるか一月になるかはだいたい半々の割合ですから、別に珍しいことではありません。

新暦の元日と旧暦の元日のずれは年により約20〜50日となります。


  

参考図

 月の動きは毎日少しずつ太陽に遅れていきます。平均29.53日経つと丸一日遅れて元に戻った形となります。これが旧暦の1ヶ月。

 

 旧暦の1ヶ月の日数は29日か30日です。

 

 したがって旧暦の12ヶ月は354日ほどなので、次の年は前年より早い時期に始まります。

 

 このように旧暦の正月は毎年季節に対して少しずつ早まることになりますが、約3年経つと雨水(これを含むのが正月と決められている)の位置までにもう1ヶ月入ることになるので正月は一気にひと月後れた時期となって季節のズレはリセットされます。

 

 その結果13ヶ月となる年の各月は次のように名付けられます。
 例えばある年の中気(二十四節気のひとつ置きのもの)を雨水から順に示してみると、下図のようにそれぞれの中気を含む月が順に一月、二月、三月・・・となります。
 ところが12の中気に対して13の月が対応するので中気を含まない月がひとつ出てきます。そこでそれを閏月とし、名前は直前の月と同じとします。

 

      (中気と中気の間隔は平均約30.4日、旧暦のひと月は平均約29.5日。)


日本の暦の歴史   和年号と読み方                 カレンダーの歴史はこちら

 体系的な暦を知る前は、人々は素朴に月の形の移り変わりで日々の移ろいを、太陽の見え方で季節の推移を把握していた
 ものと思われます。

 日本書紀の欽明天皇十四(553)年6月の条に、百済から暦博士を招いて暦本を入手しようとした記事があります。
 その暦は当然太陰太陽暦で、いま旧暦と言っているものとほぼ同じものでした。
 その後江戸時代まで(時代によって計算方式の細部は異なりましたが)暦は公式に発布されてきました。

 554(欽明天皇十五)?年〜元嘉暦
   697(文武天皇元)年〜儀鳳暦
   764(天平宝字八)年〜大衍暦
     857(天安元)年〜五紀暦(大衍暦と併用)
     862(貞観四)年〜宣明暦 ここまでが輸入暦
    1685(貞享二)年〜貞享暦 渋川春海※による国産暦。以下国産の暦。
    1755(宝暦五)年〜宝暦暦
    1798(寛政十)年〜寛政暦
   1844(天保十五)年〜天保暦

しぶかわはるみ/しゅんかい:江戸前期の天文暦学者

 そしてこれらの暦に従って以下のような実用的な「こよみ」が作られてきました。

(以下Wikipediaから引用)
具注暦(ぐちゅうれき) 吉凶判断のための様々な暦注が記載されているところからの命名。飛鳥時代の木簡に具注暦を記したものが見つかっている。奈良時代には朝廷の陰陽寮が作成し頒布していた。鎌倉時代に具注暦を仮名表記にした仮名暦が現れた。
三島暦(みしまごよみ) 奈良時代(8世紀後半)から続くと言われている。この暦を作ったのは奈良から三島宿へ移ってきた暦師河合家であった。江戸時代初期には幕府の公式の暦となり、関東・東海地方で広く使われていた。河合家は平成に入り50代続いた暦師を廃業した。
京暦(きょうごよみ) 始まりは鎌倉時代と推定されている。15世紀中頃には摺暦座(すりごよみざ)が専売権を持っていた。1657年には朝廷御用達で全国の暦師の監督権を持っていた大経師(だいきょうじ)が大経師暦を発行していた。
大宮暦(おおみやごよみ) 戦国時代に武蔵国大宮の氷川神社で作成された仮名暦。
丹生暦(にゅうこよみ) 三重県丹生の賀茂家が版行していた暦で遅くとも16世紀中頃には発行されていたが、後に伊勢暦にとってかわられる。
伊勢暦(いせごよみ) 1632年より発行され江戸時代には全国各地に配布された。この暦には吉凶凡例、日ごとの節気や農事に関する記述があり生活暦として重宝され、伊勢詣の土産にもなっていた。配布数も増加し享保年間には毎年200万部が出版され、全国で配られた暦の約半数を占めていたともいわれている。
江戸暦(えどごよみ) 江戸の人口増大に伴って17世紀中期から刊行され、1697年には11名からなる仲間組織が結成された。

1871年(明治4年)には改暦および官暦の発行に伴い、全国の暦師をまとめた頒暦商社が組織された。官暦ではそれまで記載されていた吉凶の記載が除かれ、明治末には旧暦の記載もなくなったため、それらを記載した非合法の「お化け暦」が出回った。
1883年には本暦(官暦)の発行は神宮司庁の管轄となり神宮暦(じんぐうれき)と呼ばれた。
(ここまでWikipediaから引用)

会津暦(あいづごよみ) 江戸時代、会津若松の諏訪神社の神官によって作られた地方暦。
薩摩暦(さつまごよみ) 江戸時代、薩摩藩で特に暦編集の役人を置いて作らせ、領内だけに用いられた暦。
南部暦(なんぶごよみ) 南部地方で作られた暦。すべて絵によって月日、農事の気候などを一枚刷りで表したもの。
大小暦(だいしょうごよみ)その年の大の月、小の月の区別を示したもの。絵解きで表したものが多い。
盲暦(めくらごよみ)月の大小や暦注を絵解きで表したもの。文盲でも解る意。絵暦。

 旧暦明治5年12月2日(1872年12月31日)の翌日を1873(明治6)年1月1日として新暦(グレゴリオ暦)の使用が始まりました。
 当時のこよみは小冊子の形のものが主流で、専門の機関のみが発行を許されました。
 明治の中頃から1枚刷りのものが流行し、1903(明治36)年には宣伝用の日めくりカレンダーが製造されました。
 昭和21(1946)年には暦の専売制が廃され、発行が自由化されました。
 その後は日付と曜日だけのシンプルな月めくりカレンダーや、美しい写真付きのものが主流となる一方、電気時計にフラップ式(パタパタ表示)や液晶表示の日めくりが付き、また近年ではWeb上にあらゆる形式のカレンダーが提供されるようになりました。

 新暦は季節(太陽の運行)とピッタリ一致していますから、毎年難しい計算をして作り出す必要がありません。その後の日本で「旧暦」とされているものは言わば民間の任意の計算によるものであり、江戸時代までのような公式に発布された暦ではありません。したがって観測や計算の方式の違いによって僅かに異なった暦となることがあります。このページで述べたのは原則の簡単な説明です。

注意:
 1873年(明治6年)より前の日本史上の日付(月と日)は旧暦のものがそのまま使われています。ものの本にたとえ西暦何年何月何日と表記してあったとしても月と日の部分は(たいへん不合理なことですが)特別な注記がない限り旧暦のものですので、そのまま西暦の日付であると誤解しないよう注意が必要です。
 例えば教科書にある「西暦1837年2月19日」という記述は「西暦1837年に大部分が重なる(旧暦の)年の、(旧暦)2月19日」を意味しています。しっかりとグレゴリオ暦で記述するとすれば「西暦1837年3月15日」ということになるのですが、慣習としてそのようには記述しないことになっているのです。
 参考:
日本史上の年表記についての問題

厳密な陰暦(太陰暦)とは

旧暦と季節感について

任意の日の月齢と月の形

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和暦の年号と西暦との対応表

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