くがつふつか。 次の日孝一はあのおかしな子供が今日からほんとうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいような気がしていつもより早くカスケをさそいました。ところがカスケの方は孝一よりもっとそう考えていたと見えてとうにごはんもたべ ふろしきに包んだほんももって家の前へ出て孝一を待っていたのでした。二人は途中もいろいろその子のことをハナしながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもうしちはちにん集まっていて棒かくしをしていましたがその子はまだ来ていませんでした。
また昨日のように教室の中に居るのかと思って中をのぞいて見ましたが教室の中はシインとして誰も居ず黒板の上には昨日掃除のとき雑巾で拭いたあとが乾いてぼんやり白い縞になっていました。「昨日のやつまだ来てないな。」孝一が言いました。「うん。」カスケも言ってそこらを見まわしました。 孝一はそこで鉄棒の下へ行って じゃみあがりというやり方で無理やりに鉄棒の上にのぼり 両腕をだんだんよせて右の腕木に行くとそこへ腰掛けて 昨日又三郎の行った方をじっと見おろして待っていました。
谷川はそっちの方へきらきら光ってながれて行きその下の山の上の方では風も吹いているらしくときどき萱が白く波立っていました。カスケもやっぱりその柱の下じっとそっちを見て待っていました。ところが二人はそんなに永く待つこともありませんでした。それは突然又三郎がそのしもてのみちから灰いろの鞄を右手にかかえて走るようにして出て来たのです。「来たぞ。」と孝一が思わず下に居るカスケへ叫ぼうとしていますと早くも又三郎はどてをぐるっとまわってどんどん正門を入って来ると「お早う。」とはっきり言いました。
みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが一人も返事をしたものがありませんでした。それはみんなは先生にはいつでも「お早うございます」というように習っていたのでしたがお互に「お早う」なんて言ったことがなかったのに又三郎にそう言われても孝一やカスケはあんまりにわかで又いきおいがいいのでとうとう臆せてしまって孝一もカスケも口の中でお早うというかわりに もにゃもにゃっと言ってしまったのでした。ところが又三郎の方はべつだんそれを苦にするふうもなく にさんぽ又前へ進むとじっと立ってそのまっ黒な眼でぐるっと運動場じゅうを見まわしました。
そしてしばらく誰か遊ぶ相手がないかさがしているようでした。けれどもみんなきろきろ又三郎の方は見ていてももじもじしてやはり忙しそうに棒かくしをしたり又三郎の方へ行くものがありませんでした。又三郎はちょっと工合が悪いようにそこにつっ立っていましたが又運動場をもう一度みまわしました。それからぜんたいこの運動場は何間あるかというように正門から玄関まで大股に歩数を数えながら歩きはじめました。孝一は急いで鉄棒をはねおりてカスケとならんで息をこらしてそれを見ていました。 そのうち又三郎は向うの玄関の前まで行ってしまうとこっちへ向いてしばらく諳算をするように少し首をまげて立っていました。 みんなはやはりきろきろそっちを見ています。
又三郎は少し困ったように両手をうしろへ組むと 向う側の土手の方へ職員室の前を通って歩きだしました。 そのとき風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり、運動場のまん中でさあっと塵があがりそれが玄関の前まで行くときりきりとまわって小さなつむじ風になって黄いろな塵は瓶をさかさまにしたような形になって屋根より高くのぼりました。するとカスケが突然高く言いました。
「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいつ何かするときっと風吹いてくるぞ。」「うん。」孝一はどうだかわからないと思いながらもだまってそっちを見ていました。又三郎はそんなことには構わず土手の方へやはりすたすたと歩いて行きます。 そのとき先生がいつものように呼子をもって玄関を出て来たのです。「お早うございます。」小さな子どもらははせ集まりました。「お早う。」先生は ちらっと運動場じゅうを見まわしてから「でわならんで。」と言いながらプルルッと笛を吹きました。 みんなは集まってきて昨日のとおりきちんとならびました。
又三郎も昨日言われた所へちゃんと立っています。先生はおひさまがまっ正面なのですこしまぶしそうにしながら号令をだんだんかけてとうとうみんなは昇降口から教室へ入りました。そして礼がすむと先生は「ではみなさん、今日から勉強をはじめましょう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生と二年生の人はお習字のお手本と硯と紙を出して、三年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」 さあ、するとあっちでもこっちでもおおさわぎがはじまりました。
中にも又三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎がいきなり手をのばして 三年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは「うわあ アィな木ぺん取ってわかんないな。」と言いながら取り返そうとしますと佐太郎が「わあこいつおれのだなあ。」と言いながら鉛筆をふところの中へ入れて、あとは支那人がおじぎするときのように両手を袖へ入れて机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、「アィな アィなの木ぺんは おととい小屋で無くしてしまったけなあ。よこせったら。」と言いながらいっしょうけんめいとり返そうとしましたがどうしてもう佐太郎は机にくっついた大きな蟹の化石みたいになっているのでとうとうかよは立ったまま口を大きくまげて泣きだしそうになりました。
すると又三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったようにしてこれを見ていましたが かよがとうとうぼろぼろ涙をこぼしたのを見るとだまって右手に持っていた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の眼の前の机に置きました。すると佐太郎はにわかに元気になってむっくり起きあがりました。そして「呉れる?」と又三郎にききました。又三郎はちょっとまごついたようでしたが覚悟したように「うん。」と言いました。すると佐太郎はいきなりわらい出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。
 先生は向うで一年生の子の硯に水をついでやったりしていましたしカスケは又三郎の前ですから知りませんでしたが孝一はこれをいちばんうしろでちゃんと見ていました。 そしてまるで何と言ったらいいかわからない変な気持ちがして歯をきりきり言わせました。「では三年生のひとはお休みの前にならった引き算をもういっぺん習ってみましょう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に 25 引く12 と書きました。
三年生のこどもらはみんな一生懸命にそれを雑記帳にうつしました。かよも頭を雑記帳へくっつけるようにして書いています。「四年生の人はこれを置いて。」17 かける 4 と書きました。四年生は佐太郎をはじめ喜蔵もコースケもみんなそれをうつしました。「五年生の人は読本の 。頁の 。課をひらいて声をたてないで読めるだけ読んでごらんなさい。わからない字は雑記帳へ拾って置くのです。」五年生もみんな言われたとおりしはじめました。「孝一さんは読本の 。頁をしらべてやはり知らない字を書き抜いてください。」 
それがすむと先生はまた教壇を下りて一年生と二年生の習字を一人一人見て歩きました。又三郎は両手で本をちゃんと机の上へもって 言われたところを息もつかずじっと読んでいました。けれども雑記帳へは字を一つも書き抜いていませんでした。それはほんとうに知らない字が一つもないのか たった一本の鉛筆を佐太郎にやってしまったためかどっちともわかりませんでした。
 そのうち先生は教壇へ戻って三年生と四年生の算術の計算をして見せてまた新しい問題を出すと今度は五年生の生徒の雑記帳へ書いた知らない字を黒板へ書いてそれをかなとわけをつけました。そして「ではカスケさんここを読んで。」と言いました。カスケはにさんどひっかかりながら先生に教えられて読みました。 又三郎もだまって聞いていました。先生も本をとってじっと聞いていましたが十行ばかり読むと「そこまで、」と言ってこんどは先生が読みました。 そうしてひとまわり済むと先生はだんだんみんなの道具をしまわせました。
それから「ではここまで。」と言って教壇に立ちますと孝一がうしろで「気を付けい。」と言いました。そして礼がすむとみんな順に外へ出てこんどは外へならばずに みんな別れ別れになって遊びました。 二時間目は一年生から六年生までみんな唱歌でした。そして先生がマンドリンをもって出て来てみんなはいままでに唱ったのを先生のマンドリンについて五つもうたいました。 又三郎もみんな知っていてみんなどんどん歌いました。そしてこの時間は大変早くたってしまいました。 三時間目になるとこんどは三年生と四年生が国語で五年生と六年生が数学でした。
先生はまた黒板へ問題を書いて五年生と六年生に計算させました。しばらくたって孝一が答えを書いてしまうと、又三郎の方をちょっと見ました。すると又三郎はどこから出したか小さな消しずみで雑記帳の上へがりがりと大きく運算していたのです。

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