「SF風の又三郎」梗概

 三郎はタイムマシンによって過去の学校へ通学するが、マシンの不調によって現地に留まることにする。
 一方三郎の父が現地で行う実験の影響もあり、子供達は三郎が風の又三郎であるという強い疑いを持つ。三郎はみんなに融け込もうとするがなんとなく壁がある。
 両者は軋轢を伴いながら交流を進めるが、期限が来て三郎は去る。

 

「SF風の又三郎」解説


 ご存知のように宮沢賢治は「風の又三郎」の
原稿を未整理のまま遺しました。そのためにこれを原作に忠実なテキストで読むと読者は矛盾や奇妙な記述※1によって混乱してしまうので、これまでの多くの刊行本では適当に文章が改変されてきました。しかしそういう本を読むといかにも原作が可哀想な気がして、そのために矛盾は矛盾として残したまま読者の側でうまく受け止めて楽しむという行き方もあるのではないかと考える人も多くいます。
 この「SF風の又三郎」は、もとより正統的な読み方ではありませんが、第三の行き方として、矛盾をうまく避けるだけでなくそれ以外の奇妙な記述をも適当な解釈により合理的に処理して、原作に忠実なテキストを十分楽しめるようにと考えたときの一つの方法として提示したものです。原作部分は元のままですが、各章の前後にその後の主人公三郎の独白部分が最少限の分量で挿入してあります。
 SFという手法を取り入れたために幾分異質な雰囲気が加わった反面、新たな感慨を汲み取ることも出来るかも知れません。また、位相のずれ(時間軸上の過去や未来の相は一義的に決まっているものではなく様々な無限のバリエーションがあり得るが、誤って相矛盾する異なった相に遭遇すること)という安易な概念を使ってはいますが、それがものがたりに意味のある展開を与えるよう工夫してありますのでお許しいただきたいと思います。なお、気象干渉という概念は唐突なものではありません。過酷な冷害のひんぱんな地に育った「風の又三郎」作者の念頭にこのような空想があったことは「グスコーブドリの伝記」にも明らかです。
 原作と比べますと三郎の風の精(かもしれない)という一種の神秘性がそっくり拭われていますのでその点についての寂しさを感じる方には、異稿と呼ばれる本物の風の精の話「風野又三郎」(参考作品紹介
「風野又三郎」を読むに全文があります。)を読んだ後でもう一度「風の又三郎」原作をお読みになることをお勧めします。SFとは違う、また原作のみとも違った「又三郎」の不思議な世界を発見できることと思います。

 なお、SFという形式に慣れていない方には物語の設定が解りにくいというご意見があるかもしれません。「発端・先生と博士」を追加しましたので必要に応じてごらん下さい。

 それでは順にポイントを解説していきましょう。

 9月1日に教室に現れた三郎の格好はもちろん未来世界の彼が大人のアドバイスも得て、目的の時代に合った、ある程度都会的なものと思って用意したものでしたが、それは現代日本のファッションから大きくずれてはいないようです。情景を思い浮かべるには窓の外の子供達が着物姿であることを忘れてはなりません。
 三郎がにやっと笑ったのはもちろん子供達がそう感じたのであって、本人はにこっとしたのでした。実験の試運転を前に技術的に腐心している父達を見ていた彼は思わずヤッターと言いたいところだったでしょう。教室が震えたのは確かですが、ガラスが振動したのは風のせいかどうかは分かりません。
 先生が玄関から出て来ましたが、朝礼の時玄関から出て来るのはそれまでないことでした。なお若い読者は先生を女性だと思っていることが多いようですが、これは常識的には男の先生です。
 さてここで早くも位相のずれが現れています。いないはずの
三年生がどっと出て来て、この後最後まで存在します。(一部の本ではこの三年生を隠すのに大わらわになってしまっています。例えば「三年生」は「二年生」の間違いだろうということで「二年生」と直し、そうすると今度は別の位置の「二年生」が邪魔になってきてそれを削除するというふうに収拾がつかなくなっています。※2)嘉助も五年だったはずが四年になっています。
 先生の紹介する三郎のプロフィールはもちろん名前も含めて架空のものですが、今後の三郎の言動から見ると北海道にゆかりがあるのはどうやら幾分かは事実のようです。
 
独白参照

 ここで四つの位相を簡単に整理しておきましょう。

タイムマシンで到来――――――――――――――――――――――――――――――――――
1日 朝礼前            嘉助は5年生  6年生は一郎  3年生はいない
タイムマシンで往復――――――――――――――――――――――――――――――――――
1日 朝礼以降   三郎は4年生  嘉助は
4年生  6年生は 〃  3年生は いる 
タイムマシンで往復――――――――――――――――――――――――――――――――――
2日        三郎は
5年生  嘉助は5年生  6年生は孝一  3年生は  〃 
タイムマシンで往復――――――――――――――――――――――――――――――――――
3〜12日     三郎は 〃   嘉助は 〃   6年生は
一郎  3年生は  〃 
タイムマシンで退去――――――――――――――――――――――――――――――――――

 赤字は前の位相からのずれです。2日の夜にマシンを調整したので次のずれは小さくなっています。
 (原作には3日以降の三郎と嘉助の学年の記述はありませんが、上のように理解します。)

 翌9月2日、たった一人の六年生の名前が替わっていたり、三郎と嘉助が五年生になっていたりするのはあくまでタイムマシンに乗った三郎の側が感じる矛盾であって、他の子供達にとっては昨日三郎と一緒に体験した一日は何の矛盾もなく今日の日に連続しているのでした。これはタイムパラドックスの一種です。また未来から到来した三郎にとっては学年というものはあまり意味を持っていませんでしたので大きく戸惑うことはありませんでした。ついでに、朝礼の時先生が玄関から出て来るのはこの位相ではあたりまえのことでした。
 この朝、三郎は実験室はこの辺りの下かなあと歩測していたのであり、もうひとつ、鉛筆と炭とどちらもカーボンを紙にこすりつけて字が書けるという意味でとても面白いと強い興味を持っていたのでした。
 この日一日、三郎は地の文で「又三郎」と表現されています。これは地の文の表現者は当然子供達の世界に属しており、この六年生が孝一と呼ばれる9月2日の位相においては三郎を「又三郎」と表現したいと思った存在であり、翌日からの位相では「三郎」と表現したいと思った存在であった、と説明することができます。なおその後9月6日から地の文は「又三郎」と呼び始めますが、これはもちろん位相は関係ありませんから、地の文の表現者がものがたりの進展によってこの辺りから三郎を「又三郎」と呼ぶのがふさわしいと考えるようになったことを意味します。
 
独白参照

 9月4日では三郎はただの都会っ子ではないところを見せますが、やはりちょっと無理がありました。
 ひょっとしたらあの時三郎は、深い谷に象徴されるような底深いその世界の正体に肉薄できたのかもしれません。しかし彼は寸前で浮揚機という文明の利器で状況から逃げ出してしまいました。浮揚機の装具は上半身のほかに足にも付けるのです。
 この場面では浮揚機を登場させず、あれは嘉助の夢であったという設定も可能でしょう。しかしここはこの前からもこの後も続く「コミットメントの不徹底」という流れの一環であるとして現実の出来事でなければならないと考えてみました。
 なお、この日冒頭の子供達の人数、及び途中で耕助が現れる矛盾については解決できませんでした。今後の課題とさせて下さい。
 
独白参照

 このあとは「風の又三郎」のどの刊行本でも9月5日となっていますが、本当はオリジナル原稿が失われていて不明ですし、みんなの心理を考えても間に一日クッションがあったほうが流れが滑らかになるという判断から9月6日を採用しました。
 タバコの葉に端を発するいさかいは収まりましたが、ヤマブドウと栗に象徴されるように、依然として異質な者同士の溝は存在しています。
 
独白参照

 9月7日、未来のスマートな?クロールからすればみんなの泳ぎは相当おかしかったのでしょう。
 発破漁をめぐる大人達と子供達のふるまいは両者の世界が異質なものであることを物語っています。そんな中で三郎の世界はちょっと大人たちの世界に接触しているとは感じないでしょうか。
 発破は実験のモニターに感知され、技術者たちは不審に思いました。変な人の登場で三郎の立場は(内心ですが)またちょっと微妙となります。
 
独白参照

 9月8日、三郎は初めて我を忘れました。その時、両者の次元の壁が揺らいだそのある種の隙に一気に雪崩れ込んだものがあったのではないかと思います。それは両者の融合に触発されたものなのか、あるいは両者の間に厳然と楔を打ち込むものなのか、三郎には混乱の極みの中でとても判断は出来なかったでしょう。
 「宮沢賢治の彼方へ」(天沢退二郎、思潮社)では原作のこの場面について、作品という隔壁物質がごく薄くなっている部分であるとして、向こう側の世界が透けて見えた瞬間であるという趣旨のことを言っています。私もその向こう側の世界には到底手を付けられない気がしますのでこの日の謎はこのSFでももちろん謎のままで置いておくことにします。
 三郎が風の歌を歌うのは9日ではなく、ヤマブドウ採り(5日とする)のときの風の論争の次の日(6日)とする案もありましたが、前者を採りました。
 
独白参照

 9月12日、タイムトラベルと普通の飛行とはもちろん違います。しかし一郎の虫の知らせはほぼ正確に三郎の飛翔による退去を告げました。林のうなりの中にも三郎のさよならがきっと聴こえたことでしょう。
 先生は終いのころには実験室の一行がどうやらただものではないらしいと気付いてはいましたが、もちろん真相は知りませんから全て腹の中に納めています。先生は宿直室がまだ暑いので夕べのくつろいだ薄い着物にうちわという、普段は子供達に見せない姿で現れ、三郎の父が実験室の入り口を閉じる音を聴いて、あれ、まだ誰か残っていたのかと急いで戻ったのでした。(実験室の扉はその後二度と開けることは出来ないのでしたし、中の実験室自体も誰にも知られぬうちにきれいに消え失せてしまったのは言うまでもありません。)
 一郎と嘉助が本当はどう思っていたのかそれは分かりません。その後の三郎がずっと考え続けていたように、二人も考え続けたのではないでしょうか。
 
独白参照

 あの出会いはついにすれ違いに終わったのか、それとも何か意味のあるものを交わし得たものであったのか、今でも考えることがあります。―――三郎


 「SF風の又三郎」表紙


※1 「風の又三郎」の謎風の又三郎の謎
※2 「風の又三郎」の謎風の又三郎の謎9月1日


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