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風の又三郎     

 
    九 月 一 日

 どっどどどどうど どどうど どどう、
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいくゎりんもふきとばせ
 どっどどどどうど どどうど どどう

谷川の岸に小さな学校がありました。
教室はたった一つでしたが生徒は三年生がないだけであとは一年から六年までみんなありました。運動場もテニスコートのくらゐでしたがすぐうしろは栗の木のあるきれいな草の山でしたし運動場の隅にはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。
さわやかな九月一日の朝でした。青ぞらで風がどうと鳴り 日光は運動場いっぱいでした。黒い雪袴をはいた二人の一年生の子がどてをまはって運動場にはいって来て、まだほかに誰も来てゐないのを見て
「ほう、おら一等だぞ。一等だぞ。」とかはるがはる叫びながら大悦びで門をはいって来たのでしたが、ちょっと教室の中を見ますと、二人ともまるでびっくりして棒立ちになり、それから顔を見合せてぶるぶるふるえました。がひとりはたうたう泣き出してしまひました。といふわけは そのしんとした朝の教室のなかにどこから来たのか まるで顔も知らないおかしな赤い髪の子供がひとり一番前の机にちゃんと座ってゐたのです。そしてその机といったらまったくこの泣いた子の自分の机だったのです。もひとりの子ももう半分泣きかけてゐましたが、それでもむりやり眼をりんと張ってそっちの方をにらめてゐましたら、ちゃうどそのとき川上から
「ちやうはあかぐり ちやうはあかぐり」と高く叫ぶ声がしてそれからまるで大きな烏のやうに嘉助が かばんをかゝへてわらって運動場へかけて来ました。と思ったらすぐそのあとから佐太郎だの耕助だのどやどややってきました。
「なして泣いでら、うなかもたのが。」嘉助が泣かないこどもの肩をつかまへて云ひました。するとその子もわあと泣いてしまひました。おかしいとおもってみんながあたりを見ると教室の中にあの赤毛のおかしな子がすましてしゃんとすはってゐるのが目につきました。みんなはしんとなってしまひました。だんだんみんな女の子たちも集って来ましたが誰も何とも云へませんでした。
赤毛の子どもは一向こわがる風もなくやっぱりちゃんと座ってじっと黒板を見てゐます。
すると六年生の一郎が来ました。一郎はまるでおとなのやうにゆっくり大股にやってきてみんなを見て「何した」とききました。みんなははじめてがやがや声をたてゝその教室の中の変な子を指しました。一郎はしばらくそっちを見てゐましたがやがて鞄をしっかりかゝへてさっさと窓の下へ行きました。
みんなもすっかり元気になってついて行きました。
「誰だ、時間にならなぃに教室へはいってるのは。」一郎は窓へはいのぼって教室の中へ顔をつき出して云ひました。
「お天気のいゝ時教室さ入ってるづど先生にうんと叱らへるぞ。」窓の下の耕助が云ひました。
「叱らへでもおら知らなぃよ。」嘉助が云ひました。
「早ぐ出はって来 出はって来」一郎が云ひました。けれどもそのこどもはきょろきょろ室の中やみんなの方を見るばかりでやっばりちゃんとひざに手をおいて腰掛に座ってゐました。
ぜんたいその形からが実におかしいのでした。変てこな鼠いろのだぶだぶの上着を着て白い半ずぼんをはいてそれに赤い革の半靴をはいてゐたのです。それに顔と云ったらまるで熟した苹果のやう殊に眼はまん円でまっくろなのでした。一向語が通じないやうなので一郎も全く困ってしまひました。
「あいつは外国人だな」「学校さ入るのだな。」みんなはがやがやがやがや云ひました。ところが五年生の嘉助がいきなり
「あゝ 三年生さ入るのだ。」と叫びましたので「あゝさうだ。」と小さいこどもらは思ひましたが一郎はだまってくびをまげました。
変なこどもはやはりきょろきょろこっちを見るだけきちんと腰掛けてゐます。
そのとき風がどうと吹いて来て教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱や栗の木はみんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもは何だかにやっとわらってすこしうごいたやうでした。すると嘉助がすぐ叫びました。「あゝ わかった あいつは風の又三郎だぞ。」さうだっとみんなもおもったとき俄かにうしろの方で五郎が「わあ、痛ぃぢゃあ。」と叫びました。みんなそっちへ振り向きますと五郎が耕助に足のゆびをふまれてまるで怒って耕助をなぐりつけてゐたのです。すると耕助も怒って「わあ、われ悪くてでひと撲ぃだなあ。」と云ってまた五郎をなぐらうとしました。五郎はまるで顔中涙だらけにして耕助に組み付かうとしました。そこで一郎が間へはいって嘉助が耕助を押へてしまひました。「わあい、喧嘩するなったら、先生ぁちゃんと職員室に来てらぞ。」と一郎が云ひながらまた教室の方を見ましたら一郎は俄かにまるでぽかんとしてしまひました。たったいままで教室にゐたあの変な子が影もかたちもないのです。みんなもまるでせっかく友達になった子うまが遠くへやられたやう、せっかく捕った山雀に遁げられたやうに思ひました。
風がまたどうと吹いて来て窓ガラスをがたがた云はせうしろの山の萱をだんだん上流の方へ青じろく波だてゝ行きました。
「わあうなだ喧嘩したんだがら又三郎居なぐなったな。」嘉助が怒って云ひました。みんなもほんたうにさう思ひました。五郎はじつに申し訳けないと思って足の痛いのも忘れてしょんぼり肩をすぼめて立ったのです。
「やっぱりあいつは風の又三郎だったな。」
「二百十日で来たのだな。」「靴はいでだたぞ。」
「服も着でだたぞ。」「髪赤くておがしやづだったな。」
「ありやありや、又三郎おれの机の上さ石かげ乗せでったぞ。」二年生の子が云ひました。見るとその子の机の上には汚ない石かけが乗ってゐたのです。
「さうだ。ありや。あそごのガラスもぶっかしたぞ。」
「そだなぃでぁ。あいづぁ休み前に嘉一石ぶっつけだのだな。」「わあい。そだなぃでぁ。」と云ってゐたときこれはまた何といふ訳でせう。先生が玄関から出て来たのです。先生はぴかぴか光る呼子を右手にもってもう集れの仕度をしてゐるのでしたが、そのすぐうしろから、さっきの赤い髪の子が、まるで権現さまの尾っぱ持ちのやうにすまし込んで白いシャッポをかぶって先生についてすぱすぱとあるいて来たのです。
みんなはしいんとなってしまひました。やっと一郎が「先生お早うございます。」と云ひましたのでみんなもついて「先生お早うございます」と云っただけでした。「みなさん。お早う。どなたも元気ですね。では並んで。」先生は呼子をビルルと吹きました。それはすぐ谷の向ふの山へひゞいてまたピルルルと低く戻ってきました。
 すっかりやすみの前の通りだとみんなが思ひながら六年生は一人 五年生は七人 四年生は六人 三年生は十二人 組ごとに一列に縦にならびました。
二年生は八人一年生は四人前へならへをしてならんだのです。するとその間あのおかしな子は何かおかしいのかおもしろいのか奥歯で横っちょに舌を噛むやうにしてじろじろみんなを見ながら先生のうしろに立ってゐたのです。すると先生は高田さんこっちへおはいりなさいと云ひながら四年生の列のところへ連れて行って丈を嘉助とくらべてから嘉助とそのうしろのきよの間へ立たせました。みんなはふりかへってじっとそれを見てゐました。先生はまた玄関の前に戻って
 前へならへと号令をかけました。
みんなはもう一ぺん前へならへをしてすっかり列をつくりましたがじつはあの変な子がどういふ風にしてゐるのか見たくてかはるがはるそっちをふりむいたり横眼でにらんだりしたのでした。するとその子はちゃんと前へならへでもなんでも知ってるらしく平気で両腕を前へ出して指さきを嘉助のせなかへやっと届くくらゐにしてゐたものですから嘉助は何だかせなかがかゆいかくすぐったいかといふ風にもぢもぢしてゐました。「直れ」先生がまた号令をかけました。
「一年から順に前へおい。」そこで一年生はあるき出しまもなく二年も三年もあるき出してみんなの前をぐるっと通って右手の下駄箱のある入口に入って行きました。四年生があるき出すとさっきの子も嘉助のあとへついて大威張りであるいて行きました。前へ行った子もときどきふりかへって見 あとのものもぢっと見てゐたのです。
まもなくみんなははきものを下駄凾に入れて教室へ入って、ちゃうど外へならんだときのやうに組ごとに一列に机に座りました。さっきの子もすまし込んで嘉助のうしろに座りました。ところがもう大さわぎです。
「わあ、おらの机代ってるぞ。」
「わあ、おらの机さ石かけ入ってるぞ。」
「キッコ、キッコ、うな通信簿持って来たが。おら忘れて来たぢゃあ。」
「わあい、さの、木ぺん借せ、木ぺん借せったら。」
「わぁがない。ひとの雑記帳とってって。」
そのとき先生が入って来ましたので みんなもさわぎながらとにかく立ちあがり一郎がいちばんうしろで「礼」と云ひました。
みんなはおぢぎをする間はちょっとしんとなりましたがそれから又がやがやがやがや云ひました。
「しづかに、みなさん。しづかにするのです。」先生が云ひました。
「叱っ、悦治、やがましったら。嘉助ぇ、喜っこぅ。わあい。」と一郎が一番うしろからあまりさわぐものを一人づつ叱りました。
みんなはしんとなりました。先生が云ひました。「みなさん長い夏のお休みは面白かったですね。みなさんは朝から水泳ぎもできたし林の中で鷹にも負けないくらゐ高く叫んだりまた兄さんの草刈りについて上の野原へ行ったりしたでせう。けれどももう昨日で休みは終りました。これからは第二学期で秋です。むかしから秋は一番からだこゝろもひきしまって勉強のできる時だといってあるのです。ですから、みなさんも今日から又いっしょにしっかり勉強しませう。それからこのお休みの間にみなさんのお友達が一人ふえました。それはそこに居る高田さんです。その方のお父さんはこんど会社のご用で上の野原の入り口へおいでになってゐられるのです。高田さんはいままでは北海道の学校に居られたのですが今日からみなさんのお友達になるのですから、みなさんは学校で勉強のときも、また栗拾ひや魚とりに行くときも高田さんをさそふやうにしなければなりません。わかりましたか。わかった人は手をあげてごらんなさい。」
すぐみんなは手をあげました。その高田とよばれた子も勢よく手をあげましたので、ちょっと先生はわらひましたがすぐ、
「わかりましたね、ではよし。」と云ひましたのでみんなは火の消えたやうに一ぺんに手をおろしました。
ところが嘉助がすぐ「先生。」といってまた手をあげました。
「はい、」先生は嘉助を指さしました。
「高田さん名は何て云ふべな。」「高田三郎さんです。」
「わあ、うまい、そりや、やっぱり又三郎だな。」嘉助はまるで手を叩いて机の中で踊るやうにしましたので、大きな方の子どもらはどっと笑ひましたが三年生から下の子どもらは何か怖いといふ風にしいんとして三郎の方を見てゐたのです。先生はまた云ひました。
「今日はみなさんは通信簿と宿題をもってくるのでしたね。持って来た人は机の上へ出してください。私がいま集めに行きますから。」
みんなはばたばた鞄をあけたり風呂敷をといたりして通信簿と宿題帖を机の上に出しました。
そして先生が一年生の方から順にそれを集めはじめました。そのときみんなはぎょっとしました。といふ訳はみんなのうしろのところにいつか一人の大人が立ってゐたのです。その人は白いだぶだぶの麻服を着て黒いてかてかした半巾をネクタイの代りに首に巻いて手には白い扇をもって軽くじぶんの顔を扇ぎながら少し笑ってみんなを見おろしてゐたのです。さあみんなはだんだんしぃんとなってまるで堅くなってしまひました。ところが先生は別にその人を気にかける風もなく順々に通信簿を集めて三郎の席まで行きますと三郎は通信簿も宿題帖もない代りに両手をにぎりこぶしにして二つ机の上にのせてゐたのです。先生はだまってそこを通りすぎ、みんなのを集めてしまふとそれを両手でそろへながらまた教壇に戻りました。
「では宿題帖はこの次の土曜日に直して渡しますから、今日持って来なかった人は、あしたきっと忘れないで持って来てください。それは悦治さんとコージさんとリョウサクさんとですね。では今日はこゝまでです。あしたからちゃんといつもの通りの仕度をしてお出でなさい。それから五年生と六年生の人は、先生といっしょに教室のお掃除をしませう。ではこゝまで。」
一郎が気を付けと云ひみんなは一ぺんに立ちました。うしろの大人も扇を下にさげて立ちました。
「礼。」先生もみんなも礼をしました。うしろの大人も軽く頭を下げました。それからずうっと下の組の子どもらは一目散に教室を飛び出しましたが四年生の子どもらはまだもぢもぢしてゐました。
すると三郎はさっきのだぶだぶの白い服の人のところへ行きました。先生も教壇を下りてその人のところへ行きました。
「いやどうもご苦労さまでございます。」その大人はていねいに先生に礼をしました。
「ぢきみんなとお友達になりますから、」先生も礼を返しながら云ひました。
「何分どうかよろしくおねがひいたします。それでは。」その人はまたていねいに礼をして眼で三郎に合図すると自分は玄関の方へまはって外へ出て待ってゐますと三郎はみんなの見てゐる中を眼をりんとはってだまって昇降口から出て行って追ひつき二人は運動場を通って川下の方へ歩いて行きました。
運動場を出るときその子はこっちをふりむいてぢっと学校やみんなの方をにらむやうにするとまたすたすた白服の大人について歩いて行きました。
「先生、あの人は高田さんのお父さんすか。」一郎が箒をもちながら先生にききました。
「さうです。」
「何の用で来たべ。」
「上の野原の入口にモリブデンといふ鉱石ができるので、それをだんだん掘るやうにする為ださうです。」
「どごらあだりだべな。」
「私もまだよくわかりませんが、いつもみなさんが馬をつれて行くみちから少し川下へ寄った方なやうです。」
「モリブデン何にするべな。」
「それは鉄とまぜたり、薬をつくったりするのださうです。」
「そだら又三郎も掘るべが。」嘉助が云ひました。
「又三郎だなぃ 高田三郎だぢゃ。」佐太郎が云ひました。
「又三郎だ又三郎だ。」嘉助が顔をまっ赤にしてがん張りました。
「嘉助、うなも残ってらば掃除してすけろ。」一郎が云ひました。
「わぁい。やんたぢゃ。今日五年生ど六年生だな。」
 嘉助は大急ぎで教室をはねだして遁げてしまひました。
 風がまた吹いて来て窓ガラスはまたがたがた鳴り雑巾を入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。

 

     九 月 二 日、

次の日孝一はあのおかしな子供が今日からほんたうに学校へ来て本を読んだりするかどうか早く見たいやうな気がしていつもより早く嘉助をさそひました。ところが嘉助の方は孝一よりもっとさう考へてゐたと見えてたうにごはんもたべふろしきに包んだ本ももって家の前へ出て孝一を待ってゐたのでした。二人は途中もいろいろその子のことを談しながら学校へ来ました。すると運動場には小さな子供らがもう七八人集まってゐて棒かくしをしてゐましたがその子はまだ来てゐませんでした。また昨日のやうに教室の中に居るのかと思って中をのぞいて見ましたが教室の中はしいんとして誰も居ず黒板の上には昨日掃除のとき雑巾で拭いた痕が乾いてぼんやり白い縞になってゐました。
「昨日のやつまだ来てないな。」孝一が云ひました。
「うん」嘉助も云ってそこらを見まはしました。
 孝一はそこで鉄棒の下へ行ってぢゃみ上りといふやり方で無理やりに鉄棒の上にのぼり両腕をだんだん寄せて右の腕木に行くとそこへ腰掛けて昨日又三郎の行った方をじっと見おろして待ってゐました。谷川はそっちの方へきらきら光ってながれて行きその下の山の上の方では風も吹いてゐるらしくときどき萱が白く波立ってゐました。嘉助もやっぱりその柱の下じっとそっちを見て待ってゐました。ところが二人はそんなに永く待つこともありませんでした。それは突然又三郎がその下手のみちから灰いろの鞄を右手にかゝえて走るやうにして出て来たのです。
「来たぞ」と孝一が思はず下に居る嘉助へ叫ばうとしてゐますと早くも又三郎はどてをぐるっとまはってどんどん正門を入って来ると
「お早う。」とはっきり云ひました。みんなはいっしょにそっちをふり向きましたが一人も返事をしたものがありませんでした。それはみんなは先生にはいつでも「お早うございます」といふやうに習ってゐたのでしたがお互に「お早う」なんて云ったことがなかったのに又三郎にさう云はれても孝一や嘉助はあんまりにわかで又勢がいゝのでたうたう臆せてしまって孝一も嘉助も口の中でお早うといふかはりにもにゃもにゃっと云ってしまったのでした。ところが又三郎の方はべつだんそれを苦にする風もなく二三歩又前へ進むとじっと立ってそのまっ黒な眼でぐるっと運動場ぢゅうを見まはしました。そしてしばらく誰か遊ぶ相手がないかさがしてゐるやうでした。けれどもみんなきろきろ又三郎の方は見てゐてももじもじしてやはり忙しさうに棒かくしをしたり又三郎の方へ行くものがありませんでした。又三郎はちょっと工合が悪いやうにそこにつっ立ってゐましたが又運動場をもう一度見まはしました。それからぜんたいこの運動場は何間あるかといふやうに正門から玄関まで大股に歩数を数へながら歩きはじめました。孝一は急いで鉄棒をはねおりて嘉助とならんで息をこらしてそれを見てゐました。
そのうち又三郎は向ふの玄関の前まで行ってしまふとこっちへ向いてしばらく諳算をするやうに少し首をまげて立ってゐました。
みんなはやはりきろきろそっちを見てゐます。又三郎は少し困ったやうに両手をうしろへ組むと向ふ側の土手の方へ職員室の前を通って歩きだしました。
その時風がざあっと吹いて来て土手の草はざわざわ波になり運動場のまん中でさあっと塵があがりそれが玄関の前まで行くときりきりとまはって小さなつむじ風になって黄いろな塵は瓶をさかさまにしたやうな形になって屋根より高くのぼりました。すると嘉助が突然高く云ひました。「さうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいつ何かするときっと風吹いてくるぞ。」「うん。」孝一はどうだかわからないと思ひながらもだまってそっちを見てゐました。又三郎はそんなことにはかまはず土手の方へやはりすたすたと歩いて行きます。
そのとき先生がいつものやうに呼子をもって玄関を出て来たのです。
「お早うございます。」小さな子どもらははせ集りました。「お早う。」先生はちらっと運動場中を見まはしてから「ではならんで。」と云ひながらプルルッと笛を吹きました。
みんなは集ってきて昨日のとほりきちんとならびました。又三郎も昨日云はれた所へちゃんと立ってゐます。先生はお日さまがまっ正面なのですこしまぶしさうにしながら号令をだんだんかけてたうたうみんなは昇降口から教室へ入りました。そして礼がすむと先生は「ではみなさん今日から勉強をはじめませう。みなさんはちゃんとお道具をもってきましたね。では一年生と二年生の人はお習字のお手本と硯と紙を出して、三年生と四年生の人は算術帳と雑記帳と鉛筆を出して五年生と六年生の人は国語の本を出してください。」
さあするとあっちでもこっちでも大さわぎがはじまりました。中にも又三郎のすぐ横の四年生の机の佐太郎がいきなり手をのばして三年生のかよの鉛筆をひらりととってしまったのです。かよは佐太郎の妹でした。するとかよは「うわあ兄
木ぺん取ってわかんないな。」と云ひながら取り返さうとしますと佐太郎が「わあこいつおれのだなあ。」と云ひながら鉛筆をふところの中へ入れてあとは支那人がおじぎするときのやうに両手を袖へ入れて机へぴったり胸をくっつけました。するとかよは立って来て、「兄 兄の木ぺんは一昨日小屋で無くしてしまったけなあ。よこせったら。」と云ひながら一生けん命とり返さうとしましたがどうしてもう佐太郎は机にくっついた大きな蟹の化石みたいになってゐるのでたうたうかよは立ったまゝ口を大きくまげて泣きだしさうになりました。すると又三郎は国語の本をちゃんと机にのせて困ったやうにしてこれを見てゐましたがかよがたうたうぼろぼろ涙をこぼしたのを見るとだまって右手に持ってゐた半分ばかりになった鉛筆を佐太郎の眼の前の机に置きました。すると佐太郎はにはかに元気になってむっくり起き上りました。そして「呉れる?」と又三郎にきゝました。又三郎はちょっとまごついたやうでしたが覚悟したやうに「うん」と云ひました。すると佐太郎はいきなりわらひ出してふところの鉛筆をかよの小さな赤い手に持たせました。
先生は向ふで一年生の子の硯に水をついでやったりしてゐましたし嘉助は又三郎の前ですから知りませんでしたが孝一はこれをいちばんうしろでちゃんと見てゐました。
そしてまるで何と云ったらいゝかわからない変な気持ちがして歯をきりきり云はせました。
「では三年生のひとはお休みの前にならった引き算をもう一ぺん習ってみませう。これを勘定してごらんなさい。」先生は黒板に と書きました。三年生のこどもらはみんな一生けん命にそれを雑記帖にうつしました。かよも頭を雑記帖へくっつけるやうにして書いてゐます。「四年生の人はこれを置いて」 と書きました。四年生は佐太郎をはじめ喜蔵も甲助もみんなそれをうつしました。「五年生の人は読本の 頁の 課をひらいて声をたてないで読めるだけ読んでごらんなさい。わからない字は雑記帖へ拾って置くのです。」五年生もみんな云はれたとほりしはじめました。「孝一さんは読本の 頁をしらべてやはり知らない字を書き抜いてください。」
それがすむと先生はまた教壇を下りて一年生と二年生の習字を一人一人見てあるきました。又三郎は両手で本をちゃんと机の上へもって云はれたところを息もつかずじっと読んでゐました。けれども雑記帖へは字を一つも書き抜いてゐませんでした。それはほんたうに知らない字が一つもないのかたった一本の鉛筆を佐太郎にやってしまったためかどっちともわかりませんでした。
そのうち先生は教壇へ戻って三年生と四年生の算術の計算をして見せてまた新らしい問題を出すと今度は五年生の生徒の雑記帖へ書いた知らない字を黒板へ書いてそれをかなとわけをつけました。そして「では嘉助さんこゝを読んで」と云ひました。嘉助は二三度ひっかゝりながら先生に教へられて読みました。又三郎もだまって聞いてゐました。先生も本をとってじっと聞いてゐましたが十行ばかり読むと「そこまで」と云ってこんどは先生が読みました。
さうして一まはり済むと先生はだんだんみんなの道具をしまはせました。それから
「ではこゝまで」と云って教壇に立ちますと孝一がうしろで「気を付けい」と云ひました。そして礼がすむとみんな順に外へ出てこんどは外へならばずにみんな別れ別れになって遊びました。
二時間目は一年生から六年生までみんな唱歌でした。そして先生がマンドリンをもって出て来てみんなはいままでに唱ったのを先生のマンドリンについて五つもうたひました。
又三郎もみんな知ってゐてみんなどんどん歌ひました。そしてこの時間は大へん早くたってしまひました。
三時間目になるとこんどは三年生と四年生が国語で五年生と六年生が数学でした。先生はまた黒板へ問題を書いて五年生と六年生に計算させました。しばらくたって孝一が答へを書いてしまふと又三郎の方をちょっと見ました。すると又三郎はどこから出したか小さな消し炭で雑記帖の上へがりがりと大きく運算してゐたのです。

 

    九 月 四 日、 日 曜、

次の朝空はよく晴れて谷川はさらさら鳴りました。一郎は途中で嘉助と佐太郎と悦治をさそって一緒に三郎のうちの方へ行きました。学校の少し下流で谷川をわたって、それから岸で楊の枝をみんなで一本づつ折って青い皮をくるくる剥いで鞭を拵えて手でひゅうひゅう振りながら上の野原への路をだんだんのぼって行きました。みんなは早くも登りながら息をはあはあしました。
「又三郎ほんとにあそごの湧水まで来て待ぢでるべが。」
「待ぢでるんだ。又三郎偽こがなぃもな。」
「あゝ暑う、風吹げばいゝな。」
「どごがらだが風吹いでるぞ。」
「又三郎吹がせだらべも。」
「何だがお日さんぼゃっとして来たな。」空に少しばかりの白い雲が出ました。そしてもう大分のぼってゐました。谷のみんなの家がずうっと下に見え、一郎のうちの木小屋の屋根が白く光ってゐます。
路が林の中に入り、しばらく路はじめじめして、あたりは見えなくなりました。そして間もなくみんなは約束の湧水の近くに来ました。するとそこから「おうい。みんな来たかい。」と三郎の高く叫ぶ声がしました。
みんなはまるでせかせかと走ってのぼりました。向ふの曲り角の処に又三郎が小さな唇をきっと結んだまゝ三人のかけ上って来るのを見てゐました。三人はやっと三郎の前まで来ました。けれどもあんまり息がはあはあしてすぐには何も云へませんでした。嘉助などはあんまりもどかしいもんですから、空へ向いて「ホッホウ。」と叫んで早く息を吐いてしまはうとしました。すると三郎は大きな声で笑ひました。「ずゐぶん待ったぞ。それに今日は雨が降るかもしれないさうだよ。」
「そだら早ぐ行ぐべすさ。おらま
つ水呑んでぐ。」
三人は汗をふいてしゃがんでまっ白な岩からこぼこぼ噴きだす冷たい水を何べんも掬ってのみました。
「ぼくのうちはこゝからすぐなんだ。ちゃうどあの谷の上あたりなんだ。みんなで帰りに寄らうねえ。」
「うん。まんつ野原さ行ぐべすさ。」
みんなが又あるきはじめたとき湧水は何かを知らせるやうにぐうっと鳴り、そこらの樹もなんだかざあっと鳴ったやうでした。
四人は林の裾の藪の間を行ったり岩かけの小さく崩れる所を何べんも通ったりしてもう上の原の入口に近くなりました。
みんなはそこまで来ると来た方からまた西の方をながめました。光ったり陰ったり幾通りにも重なったたくさんの丘の向ふに川に沿ったほんたうの野原がぼんやり碧くひろがってゐるのでした。
「ありゃ、あいづ川だぞ。」
「春日明神さんの帯のようだな。」又三郎が云ひました。
「何のようだど。」一郎がききました。
「春日明神さんの帯のようだ。」「うな神さんの帯見だごとあるが。」「ぼく北海道で見たよ。」
 みんなは何のことだかわからずだまってしまひました。
 ほんたうにそこはもう上の野原の入口で、きれいに刈られた草の中に一本の巨きな栗の木が立ってその幹は根もとの所がまっ黒に焦げて巨きな洞のやうになり、その枝には古い繩や、切れたわらじなどがつるしてありました。
「もう少し行ぐづどみんなして草刈ってるぞ。それがら馬の居るどごもあるぞ。」一郎は云ひながら先に立って刈った草のなかの一ぽんみちをぐんぐん歩きました。
 三郎はその次に立って「こゝには熊居ないから馬をはなして置いてもいゝなあ。」と云って歩きました。
しばらく行くとみちばたの大きな楢の木の下に、繩で編んだ袋が投げ出してあって、沢山の草たばがあっちにもこっちにもころがってゐました。
 せなかに  をしょった二匹の馬が、一郎を見て、鼻をぷるぷる鳴らしました。
「兄
。居るが。兄。来たぞ。」一郎は汗を拭ひながら叫びました。
「おゝい。あゝい。其処そこに居ろ。今行ぐぞ。」
ずうっと向ふの窪みで、一郎の兄さんの声がしました。
 陽がぱっと明るくなり、兄さんがそっちの草の中から笑って出て来ました。
ぐ来たな。みんなも連れで来たのが。ぐ来た。戻りに馬こ連れでてけろな今日ぁひるまがらきっと曇る。おらもう少し草集めて仕舞しむがらな、うなだ遊ばばあの土手の中さ入ってろ。まだ牧場の馬二十疋ばがり居るがらな。」
兄さんは向ふへ行かうとして、振り向いて又云ひました。
「土手がら外さ出はるなよ。迷ってしまふづど危なぃがらな。午まになったら又来るがら。」
「うん。土手の中に居るがら。」
 そして一郎の兄さんは、行ってしまひました。空にはうすい雲がすっかりかゝり、太陽は白い鏡のやうになって、雲と反対に馳せました。風が出て来てまだ刈ってない草は一面に波を立てます。一郎はさきにたって小さなみちをまっすぐに行くとまもなくどてになりました。その土手の一とこちぎれたところに二本の丸太の棒を横にわたしてありました。耕助がそれをくぐらうとしますと、嘉助が「おらこったなもの外せだだど」と云ひながら片っ方のはじをぬいて下におろしましたのでみんなはそれをはね越えて中へ入りました。向ふの少し小高いところにてかてか光る茶いろの馬が七疋ばかり集まってしっぽをゆるやかにばしゃばしゃふってゐるのです。
「この馬みんな千円以上するづもな。来年がらみんな競馬さも出はるのだ
ぢゃい。」一郎はそばへ行きながら云ひました。
馬はみんないままでさびしくって仕様なかったといふやうに一郎だちの方へ寄ってきました。
そして鼻づらをずうっとのばして何かほしさうにするのです。
「ははあ、塩をけろづのだな。」みんなは云ひながら手を出して馬になめさせたりしましたが三郎だけは馬になれてゐないらしく気味悪さうに手をポケットへ入れてしまひました。
「わあ又三郎馬怖ながるぢゃい。」と悦治が云ひました。
すると三郎は「怖くなんかないやい。」と云ひながらすぐポケットの手を馬の鼻づらへのばしましたが馬が首をのばして舌をべろりと出すとさあっと顔いろを変へてすばやくまた手をポケットへ入れてしまひました。
「わあい、又三郎馬怖ながるぢゃい。」悦治が又云ひました。すると三郎はすっかり顔を赤くしてしばらくもぢもぢしてゐましたが
「そんなら、みんなで競馬やるか。」と云ひました。
競馬ってどうするのかとみんな思ひました。
すると三郎は、「ぼく競馬何べんも見たぞ。けれどもこの馬みんな鞍がないから乗れないや。みんなで一疋づつ馬を追ってはじめに向ふの、そら、あの巨きな樹のところに着いたものを一等にしやう。」
「そいづ面白な。」嘉助が云ひました。
「叱らへるぞ。牧夫に見っ附らへでがら。」
「大丈夫だよ。競馬に出る馬なんか練習をしてゐないといけないんだい。」三郎が云ひました。
「よしおらこの馬だぞ。」「おらこの馬だ。」
「そんならぼくはこの馬でもいゝや。」みんなは楊の枝や萱の穂でしうと云ひながら馬を軽く打ちました。ところが馬はちっともびくともしませんでした。やはり下へ首を垂れて草をかいだり首をのばしてそこらのけしきをもっとよく見るといふやうにしてゐるのです。
一郎がそこで両手をぴしゃんと打ち合せて だあと云ひました。すると俄かに七疋ともまるでたてがみをそろへてかけ出したのです。
「うまぁい。」嘉助ははね上って走りました。けれどもそれはどうも競馬にはならないのでした。第一馬はどこまでも顔をならべて走るのでしたしそれにそんなに競争するくらゐ早く走るのでもなかったのです。それでもみんなは面白がってだあだと云ひながら一生けん命そのあとを追ひました。
馬はすこし行くと立ちどまりさうになりました。みんなもすこしはあはあしましたがこらえてまた馬を追ひました。するといつか馬はぐるっとさっきの小高いところをまはってさっき四人ではいって来たどての切れた所へ来たのです。
 「あ、馬出はる、馬出はる。押へろ 押へろ。」
一郎はまっ青になって叫びました。じっさい馬はどての外へ出たのらしいのでした。どんどん走ってもうさっきの丸太の棒を越えさうになりました。一郎はまるであわてゝ「どうどうどうどう。」と云ひながら一生けん命走って行ってやっとそこへ着いてまるでころぶやうにしながら手をひろげたときはもう二疋はもう外へ出てゐたのでした。
「早ぐ来て押へろ。早ぐ来て。」一郎は息も切れるやうに叫びながら丸太棒をもとのやうにしました。三人は走って行って急いで丸太をくぐって外へ出ますと二疋の馬はもう走るでもなくどての外に立って草を口で引っぱって抜くやうにしてゐます。「そろそろど押へろよ。そろそろど。」と云ひながら一郎は一ぴきのくつわについた札のところをしっかり押へました。嘉助と三郎がもう一疋を押へやうとそばへ寄りますと馬はまるで愕いたやうにどてへ沿って一目散に南の方へ走ってしまひました。
 「兄な馬ぁ逃げる、馬ぁ逃げる。兄な。馬逃げる。」とうしろで一郎が一生けん命叫んでゐます。三郎と嘉助は一生けん命馬を追ひました。
ところが馬はもう今度こそほんたうに遁げるつもりらしかったのです。まるで丈ぐらゐある草をわけて高みになったり低くなったりどこまでも走りました。
嘉助はもう足がしびれてしまってどこをどう走ってゐるのかわからなくなりました。それからまはりがまっ蒼になって、ぐるぐる廻り、たうたう深い草の中に倒れてしまひました。馬の赤いたてがみとあとを追って行く三郎の白いシャッポが終りにちらっと見えました。
 嘉助は、仰向けになって空を見ました。空がまっ白に光って、ぐるぐる廻り、そのこちらを薄い鼠色の雲が、速く速く走ってゐます。そしてカンカン鳴ってゐます。
 嘉助はやっと起き上って、せかせか息しながら馬の行った方に歩き出しました。草の中には、今馬と三郎が通った痕らしく、かすかな路のやうなものがありました。嘉助は笑ひました。そして、(ふん。なあに、馬何処かで こわくなってのっこり立ってるさ。)と思ひました。
 そこで嘉助は、一生懸命それを跡けて行きました。ところがその路のやうなものは、まだ百歩も行かないうちに、をとこへしや、すてきに背の高い薊の中で、二つにも三つにも分れてしまって、どれがどれやら一向わからなくなってしまひました。嘉助はおういと叫びました。
 おうとどこかで三郎が叫んでゐるやうです。思ひ切って、そのまん中のを進みました。けれどもそれも、時々れたり、馬の歩かないやうな急な所を横様よこざまに過ぎたりするのでした。
 空はたいへん暗く重くなり、まはりがぼうっと霞んで来ました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が、切れ切れになって眼の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
(あゝ、こいつは悪くなって来た。みんな悪いことはこれからたかってやって来るのだ。)と嘉助は思ひました。全くその通り、俄に馬の通った痕は、草の中で無くなってしまひました。
(あゝ、悪くなった、悪くなった。)嘉助は胸をどきどきさせました。
 草がからだを曲げて、パチパチ云ったり、さらさら鳴ったりしました。霧が殊にしげくなって、着物はすっかりしめってしまひました。
 嘉助は咽喉一杯叫びました。
「一郎、一郎こっちさ来う。」
ところが何の返事も聞えません。黒板から降る白墨の粉のやうな、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまはり、あたりが俄にシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もう雫の音がポタリポタリと聞えて来ます。
 嘉助はもう早く、一郎たちの所へ戻らうとして急いで引っ返しました。けれどもどうも、それは前に来た所とは違ってゐたやうでした。第一、薊があんまり沢山ありましたし、それに草の底にさっき無かった岩かけが、度々ころがってゐました。そしてたうたう聞いたこともない大きな谷が、いきなり眼の前に現はれました。すすきが、ざわざわざわっと鳴り、向ふの方は底知れずの谷のやうに、霧の中に消えてゐるではありませんか。
 風が来ると、芒の穂は細い沢山の手を一ぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん。あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんて云ってゐる様でした。
 嘉助はあんまり見っともなかったので、目をつぶって横を向きました。そして急いで引っ返しました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは沢山の馬の蹄の痕で出来上ってゐたのです。嘉助は、夢中で、短い笑ひ声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。
 けれども、たよりのないことは、みちのはゞが五寸ぐらゐになったり、又三尺ぐらゐに変ったり、おまけに何だかぐるっと廻ってゐるやうに思はれました。そして、たうたう、大きなてっぺんの焼けた栗の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも岐れてしまひました。
 其処は多分は、野馬の集まり場所であったでせう、霧の中に円い広場のやうに見えたのです。
嘉助はがっかりして、黒い道を又戻りはじめました。知らない草穂が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かゞ合図をしてでも居るやうに、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。
 空が光ってキインキインと鳴ってゐます。それからすぐ眼の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらはれました。嘉助はしばらく自分の眼を疑って立ちどまってゐましたが、やはりどうしても家らしかったので、こわごわもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。
 空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度に雫を払ひました。
「間違って原を向ふ側へ下りれば、又三郎もおれももう死ぬばかりだ」と嘉助は、半分思ふ様に半分つぶやくやうにしました。それから叫びました。
「一郎、一郎、居るが。一郎。」
又明るくなりました。草がみな一斉に悦びの息をします。
「伊佐戸の町の、電気工夫のわらすぁ、山男に手足ぃ縄らへてたふうだ。」といつか誰かの話した語が、はっきり耳に聞えて来ます。
 そして、黒い路が、俄に消えてしまひました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。
 空が旗のやうにぱたぱた光って翻へり、火花がパチパチパチッと燃えました。嘉助はたうたう草の中に倒れてねむってしまひました。
そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。
もう又三郎がすぐ眼の前に足を投げだしてだまって空を見あげてゐるのです。いつかいつもの鼠いろの上着の上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。
又三郎の肩には栗の木の影が青く落ちてゐます。又三郎の影はまた青く草に落ちてゐます。そして風がどんどんどんどん吹いてゐるのです。又三郎は笑ひもしなければ物も云ひません。たゞ小さな唇を強さうにきっと結んだまゝ黙ってそらを見てゐます。いきなり又三郎はひらっとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。ふと嘉助は眼をひらきました。灰いろの霧が速く速く飛んでゐます。
そして馬がすぐ眼の前にのっそりと立ってゐたのです。その眼は嘉助を怖れて横の方を向いてゐました。
嘉助ははね上って馬の名札を押へました。そのうしろから三郎がまるで色のなくなった唇をきっと結んでこっちへ出てきました。嘉助はぶるぶるふるえました。「おうい。」霧の中から一郎の兄さんの声がしました。雷もごろごろ鳴ってゐます。
「おゝい嘉助。居るが。嘉助。」一郎の声もしました。嘉助はよろこんでとびあがりました。
「おゝい。居る、居る。一郎。おゝい。」
 一郎の兄さんと一郎が、とつぜん、眼の前に立ちました。嘉助は俄かに泣き出しました。
「探したぞ。危ながったぞ。すっかりぬれだな。どう。」一郎の兄さんはなれた手付きで馬の首を抱いてもってきたくつはをすばやく馬のくちにはめました。「さあ、あべさ。」「又三郎びっくりしたべぁ。」一郎が三郎に云ひました。三郎はだまってやっぱりきっと口を結んでうなづきました。
 みんなは一郎の兄さんについて緩い傾斜を、二つ程昇り降りしました。それから、黒い大きな路について、暫らく歩きました。
 稲光が二度ばかり、かすかに白くひらめきました。草を焼く匂がして、霧の中を煙がほっと流れてゐます。
 一郎の兄さんが叫びました。
「おぢいさん。居だ、居だ。みんな居だ。」
 おぢいさんは霧の中に立ってゐて、
「あゝ心配した、心配した。あゝ好がった。おゝ嘉助。寒がべぁ、さあ入れ。」と云ひました。嘉助は一郎と同じやうにやはりこのおぢいさんの孫なやうでした。
 半分に焼けた大きな栗の木の根もとに、草で作った小さな囲ひがあって、チョロチョロ赤い火が燃えてゐました。
 一郎の兄さんは馬を楢の木につなぎました。
馬もひひんと鳴いてゐます。
「おゝむぞやな。な。何ぼが泣いだがな。そのわろは金山堀りのわろだな。さあさあみんな、団子たべろ。食べろ。な。今こっちを焼ぐがらな。全体ぜんたぃ何処迄行ってだった。」
「笹長根の下り口だ。」と一郎の兄さんが答へました。
「危ぃがった。危ぃがった。向ふさ降りだら馬も人もそれっ切りだったぞ。さあ嘉助。団子喰べろ。このわろもたべろ。さあさあ、こいづも食べろ。」
「おぢいさん。馬置いでくるが。」と一郎の兄さんが云ひました。
「うんうん。牧夫来るどまだやがましがらな。したどもも少し待で。又すぐ晴れる。あゝ心配した。俺も虎こ山の下まで行って見で来た。はあ、まんつ好がった。雨も晴れる。」
「今朝ほんとに天気好がったのにな。」
「うん。又好ぐなるさ。あ、雨漏って来たな。」
 一郎の兄さんが出て行きました。天井がガサガサガサガサ云ひます。おぢいさんが、笑ひながらそれを見上げました。
 兄さんが又はいって来ました。
「おぢいさん。明るぐなった。雨ぁ霽れだ。」
「うんうん。さうが。さあみんなよっく火にあだれ、おら又草刈るがらな」
 霧がふっと切れました。陽の光がさっと流れて入りました。その太陽は、少し西の方に寄ってかゝり、幾片かの蝋のやうな霧が、逃げおくれて仕方なしに光りました。
 草からは雫がきらきら落ち、総ての葉も茎も花も、今年の終りのの光を吸ってゐます。
 はるかな西の碧い野原は、今泣きやんだやうにまぶしく笑ひ、向ふの栗の木は、青い後光を放ちました。みんなはもう疲れて一郎をさきに野原をおりました。湧水のところで三郎はやっぱりだまってきっと口を結んだまゝみんなに別れてじぶんだけお父さんの小屋の方へ帰って行きました。
帰りながら嘉助が云ひました。
「あいづやっぱり風の神だぞ。風の神の子っ子だぞ。あそごさ二人して巣食ってるんだぞ。」
「そだなぃよ。」一郎が高く云ひました。

 

    九 月 六 日

 次の日は朝のうちは雨でしたが、二時間目からだんだん明るくなって三時間目の終りの十分休みにはたうとうすっかりやみ、あちこちに削ったやうな青ぞらもできて、その下をまっ白な鱗雲がどんどん東へ走り、山の萱からも栗の木からも残りの雲が湯気のやうに立ちました。
さがったら葡萄蔓とりに行がなぃが。」耕助が嘉助にそっと云ひました。
「行ぐ行ぐ。又三郎も行がなぃが。」嘉助がさそひました。耕助は、
「わあい、あそご又三郎さ教へるやなぃぢゃ。」と云ひましたが三郎は知らないで、
「行くよ。ぼくは北海道でもとったぞ。ぼくのお母さんは樽へ二っつ漬けたよ。」と云ひました。
「葡萄とりにおらも連でがなぃが。」二年生の承吉も云ひました。
「わがなぃぢゃ。うなどさ教へるやなぃぢゃ。おら去年な新らしいどご目附だぢゃ。」
 みんなは学校の済むのが待ち遠しかったのでした。五時間目が終ると、一郎と嘉助が佐太郎と耕助と悦治と又三郎と六人で学校から上流の方へ登って行きました。少し行くと一けんの藁やねの家があって、その前に小さなたばこ畑がありました。たばこの木はもう下の方の葉をつんであるので、その青い茎が林のやうにきれいにならんでいかにも面白さうでした。
 すると又三郎はいきなり、
「何だい、此の葉は。」と云ひながら葉を一枚むしって一郎に見せました。すると一郎はびっくりして、
「わあ、又三郎、たばごの葉とるづど専売局にうんと叱られるぞ。わあ、又三郎何してとった。」と少し顔いろを悪くして云ひました。みんなも口々に云ひました。
「わあい。専売局でぁ、この葉一枚づつ数へで帖面さつけでるだ。おら知らなぃぞ。」
「おらも知らなぃぞ。」
「おらも知らなぃぞ。」みんな口をそろへてはやしました。
 すると三郎は顔をまっ赤にして、しばらくそれを振り廻はして何か云はうと考えてゐましたが、
「おら知らないでとったんだい。」と怒ったやうに云ひました。
 みんなは怖さうに、誰か見てゐないかといふやうに向ふの家を見ました。たばこばたけからもうもうとあがる湯気の向ふで、その家はしいんとして誰も居たやうではありませんでした。
「あの家一年生の小助の家だぢゃい。」嘉助が少しなだめるやうに云ひました。ところが耕助ははじめからじぶんの見附けた葡萄藪へ、三郎だのみんなあんまり来て面白くなかったもんですから、意地悪くもいちど三郎に云ひました。
「わあ、又三郎なんぼ知らなぃたってわがなぃんだぢゃ。わあい、又三郎もどの通りにしてまゆんだであ。」
 又三郎は困ったやうにしてまたしばらくだまってゐましたが、
「そんなら、おいら此処へ置いてくからいゝや。」と云ひながらさっきの木の根もとへそっとその葉を置きました。すると一郎は、
「早くあべ。」と云って先にたってあるきだしましたのでみんなもついて行きましたが、耕助だけはまだ残って、
「ほう、おら知らなぃぞ。ありゃ、又三郎の置いた葉、あすごにあるぢゃい。」なんて云ってゐるのでしたがみんながどんどん歩きだしたので耕助もやっとついて来ました。
 みんなは萱の間の小さなみちを山の方へ少しのぼりますと、その南側に向いた窪みに栗の木があちこち立って、下には葡萄がもくもくした大きな藪になってゐました。
「こゞおれ見っ附だのだがらみんなあんまりとるやなぃぞ。」耕助が云ひました。
 すると三郎は、
「おいら栗の方をとるんだい。」といって石を拾って一つの枝へ投げました。青いいがが一つ落ちました。
又三郎はそれを棒きれで剥いて、まだ白い栗を二つとりました。みんなは葡萄の方へ一生けん命でした。
 そのうち耕助がも一つの藪へ行かうと一本の栗の木の下を通りますと、いきなり上から雫が一ぺんにざっと落ちてきましたので、耕助は肩からせなかから水へ入ったやうになりました。耕助は愕いて口をあいて上を見ましたら、いつか木の上に又三郎がのぼってゐて、なんだか少しわらひながらじぶんも袖ぐちで顔をふいてゐたのです。
「わあい、又三郎何する。」耕助はうらめしさうに木を見あげました。
「風が吹いたんだい。」三郎は上でくつくつわらひながら云ひました。
 耕助は樹の下をはなれてまた別の藪で葡萄をとりはじめました。もう耕助はじぶんでも持てないくらゐあちこちへためてゐて、口も紫いろになってまるで大きく見えました。
「さあ、この位持って戻らなぃが。」一郎が云ひました。
「おら、もっと取ってぐぢゃ。」耕助が云ひました。
 そのとき耕助はまた頭からつめたい雫をざあっとかぶりました。耕助はまたびっくりしたやうに木を見上げましたが今度は三郎は樹の上には居ませんでした。
 けれども樹の向ふ側に三郎の鼠いろのひぢも見えてゐましたし、くつくつ笑ふ声もしましたから、耕助はもうすっかり怒ってしまひました。
「わあい又三郎、まだひとさ水掛げだな。」
「風が吹いたんだい。」
 みんなはどっと笑ひました。
「わあい又三郎、うなそごで木ゆすったけぁなあ。」
 みんなはどっとまた笑ひました。
 すると耕助はうらめしさうにしばらくだまって三郎の顔を見ながら、
「うあい又三郎汝などあ世界になくてもいなあぃ」すると又三郎はずるそうに笑ひました。「やあ耕助君失敬したねえ。」耕助は何かもっと別のことを云はうと思ひましたがあんまり怒ってしまって考へ出すことが出来ませんでしたので又同じやうに叫びました。「うあい、うあいだが、又三郎、うなみだぃな風など世界中になくてもいゝなあ、うわあい」「失敬したよ。だってあんまりきみもぼくへ意地悪をするもんだから。」又三郎は少し眼をパチパチさせて気の毒そうに云ひました。けれども耕助のいかりは仲々解けませんでした。そして三度同じことをくりかへしたのです。「うわい 又三郎風などあ世界中に無くてもいな、うわい」すると又三郎は少し面白くなった様でまたくつくつ笑ひだしてたづねました。「風が世界中に無くってもいゝってどう云ふんだい。いゝと箇條をたてゝいってごらん そら」又三郎は先生みたいな顔つきをして指を一本だしました。耕助は試験の様だしつまらないことになったと思って大へん口惜しかったのですが仕方なくしばらく考へてから云ひました。「汝など悪戯ばりさな、傘ぶっ壊したり」「それからそれから」又三郎は面白そうに一足進んで云ひました。「それがら樹折ったり転覆したりさな」「それから それからどうだい」「家もぶっ壊さな」「それからそれから あとはどうだい」「あかしも消さな、」
「それから あとは? それからあとは? どうだい」「シャップもとばさな」
「それから? それからあとは? あとはどうだい。」「笠もとばさな。」「それからそれから」「それがらうう電信ばしらも倒さな」「それから? それから? それから?」
「それがら屋根もとばさな」「アアハハハ屋根は家のうちだい。どうだいまだあるかい。それから それから?」「それだがら、うう、それだがらラムプも消さな。」
「アハハハハハ、ラムプはあかしのうちだい。けれどそれだけかい。え、おい。それから? それからそれから。」
 耕助はつまってしまひました。大抵もう云ってしまったのですからいくら考へてももう出ませんのでした。又三郎はいよいよ面白そうに指を一本立てながら「それから? それから? えゝ? それから」と云ふのでした。
耕助は顔を赤くしてしばらく考へてからやっと答へました、「風車もぶっ壊さな」すると又三郎はこんどこそはまるで飛び上って笑ってしまひました。みんなも笑ひました。笑って笑って笑ひました。
又三郎はやっと笑ふのをやめて云ひました。
「そらごらんたうたう風車などを云っちゃったらう。風車なら風を悪く思っちゃいないんだよ、勿論時々こわすこともあるけれども廻してやる時の方がずっと多いんだ。風車ならちっとも風を悪く思っていないんだ。それに第一お前のさっきからの数へようはあんまりおかしいや。うう、うう、でばかりゐたんだらう。おしまひにたうたう風車なんか数へちゃった あゝおかしい」又三郎は又泪の出るほど笑ひました。耕助もさっきからあんまり困ったために怒ってゐたのもだんだん忘れて来ました、そしてつい又三郎と一しょに笑ひ出してしまったのです、すると又三郎もすっかりきげんを直して、「耕助君、いたづらをして済まなかったよ」と云ひました。
「さあそれでぁ行ぐべな。」と一郎は云ひながら又三郎にぶだうを五ふさばかりくれました。又三郎は白い栗をみんなに二つづつ分けました。そしてみんなは下のみちまでいっしょに下りてあとはめいめいのうちへ帰ったのです。

 

    九 月 七 日

次の朝は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところが今日も二時間目ころからだんだん晴れて間もなく空はまっ青になり日はかんかん照ってお午になって三年生から下が下ってしまふとまるで夏のやうに暑くなってしまひました。
ひるすぎは先生もたびたび教壇で汗を拭き四年生の習字も五年生六年生の図画もまるでむし暑くて書きながらうとうとするのでした。
授業が済むとみんなはすぐ川下の方へそろって出掛けました。嘉助が「又三郎水泳びに行がなぃが。小さいやづど今ころみんな行ってるぞ。」と云ひましたので又三郎もついて行きました。
そこはこの前上の野原へ行ったところよりもも少し下流で右の方からも一つの谷川がはいって来て少し広い河原になりそのすぐ下流は巨きなさいかちの樹の生えた崖になってゐるのでした。「おゝい。」とさきに来てゐるこどもらがはだかで両手をあげて叫びました。一郎やみんなは、河原のねむの木の間をまるで徒競争のやうに走っていきなりきものをぬぐとすぐどぶんどぶんと水に飛び込んで両足をかはるがはる曲げてだぁんだぁんと水をたゝくやうにしながら斜めにならんで向ふ岸へ泳ぎはじめました。
 前に居たこどもらもあとから追ひ付いて泳ぎはじめました。
 又三郎もきものをぬいでみんなのあとから泳ぎはじめましたが、途中で声をあげてわらひました。
すると向ふ岸についた一郎が髪をあざらしのやうにして唇を紫にしてわくわくふるえながら、「わあ又三郎 何してわらった。」と云ひました。又三郎はやはりふるえながら水からあがって「この川冷たいなあ。」と云ひました。
「又三郎何してわらった?」一郎はまたききました。
「おまへたちの泳ぎ方はおかしいや。なぜ足をだぶだぶ鳴らすんだい。」と云ひながらまた笑ひました。
「うわあい、」と一郎は云ひましたが何だかきまりが悪くなったやうに
「石取りさなぃが。」と云ひながら白い円い石をひろひました。
「するする」こどもらがみんな叫びました。
 おれそれでぁあの木の上がら落すがらな。と一郎は云ひながら崖の中ごろから出てゐるさいかちの木へするする昇って行きました。そして「さあ落すぞ、一二三。」と云ひながら、その白い石をどぶーんと淵へ落しました。みんなはわれ勝に岸からまっさかさまに水にとび込んで青白いらっこのやうな形をして底へ潜ってその石をとらうとしました。けれどもみんな底まで行かないに息がつまって浮びだして来て、かはるがはるふうとそらへ霧をふきました。
又三郎はじっとみんなのするのを見てゐましたが、みんなが浮んできてからじぶんもどぶんとはいって行きました。けれどもやっぱり底まで届かずに浮いてきたのでみんなはどっと笑ひました。そのとき向ふの河原のねむの木のところを大人が四人、肌ぬぎになったり網をもったりしてこっちへ来るのでした。
 すると一郎は木の上でまるで声をひくくしてみんなに叫びました。
「おゝ、発破だぞ。知らないふりしてろ。石とりやめで早ぐみんな下流ささがれ。」そこでみんなは、なるべくそっちを見ないふりをしながらいっしょに下流しもの方へ泳ぎました。一郎は、木の上で手を額にあてて、もう一度よく見きわめてから、どぶんと逆まに淵へ飛びこみました。それから水を潜って、一ぺんにみんなへ追ひついたのです。
 みんなは、淵の下流しもの、瀬になったところに立ちました。「知らないふりして遊んでろ。みんな。」一郎が云ひました。みんなは、砥石をひろったり、せきれいを追ったりして、発破のことなぞ、すこしも気がつかないふりをしてゐました。
 すると向ふの淵の岸では、下流の坑夫をしてゐた庄助が、しばらくあちこち見まはしてから、いきなりあぐらをかいて、砂利の上へ坐ってしまひました。それからゆっくり、腰からたばこ入れをとって、きせるをくわいて、ぱくぱく煙をふきだしました。奇体だと思ってゐましたら、また腹かけから、何か出しました。「発破だぞ、発破だぞ。」とみんな叫びました。一郎は、手をふってそれをとめました。庄助は、きせるの火を、しづかにそれへうつしました。うしろに居た一人は、すぐ水に入って、網をかまへました。庄助は、まるで落ちついて、立って一あし水にはいると、すぐその持ったものを、さいかちの木の下のところへ投げこみました。するとまもなく、ぼぉといふやうなひどい音がして、水はむくっと盛りあがり、それからしばらく、そこらあたりがきぃんと鳴りました。向ふの大人たちは、みんな水へ入りました。
「さあ、流れて来るぞ。みんなとれ。」と一郎が云ひました。まもなく、耕助は小指ぐらゐの茶いろなかじかが、横向きになって流れて来たのをつかみましたしそのうしろでは嘉助が、まるで瓜をすするときのやうな声を出しました。それは六寸ぐらゐあるふなをとって、顔をまっ赤にしてよろこんでゐたのです。それからみんなとってわあわあよろこびました。「だまってろ、だまってろ。」一郎が云ひました。
 そのとき、向ふの白い河原を、肌ぬぎになったり、シャツだけ着たりした大人が、五六人かけて来ました。そのうしろからは、ちゃうど活動写真のやうに、一人の網シャツを着た人が、はだか馬に乗って、まっしぐらに走って来ました。みんな発破の音を聞いて、見に来たのです。
 庄助は、しばらく腕を組んでみんなのとるのを見てゐましたが、「さっぱり居なぃな。」と云ひました。すると又三郎がいつの間にか庄助のそばへ行ってゐました。
 そして中位の鮒を二疋「魚返すよ。」といって河原へ投げるやうに置きました。すると庄助が
「何だこの童ぁ、きたいなやづだな。」と云ひながらじろじろ又三郎を見ました。
 又三郎はだまってこっちへ帰ってきました。庄助は変な顔をしてみてゐます。みんなはどっとわらひました。
 庄助はだまって、また上流かみへ歩きだしました。ほかのおとなたちもついて行き網シャツの人は、馬に乗って、またかけて行きました。耕助が泳いで行って三郎の置いて来た魚を持ってきました。みんなはそこでまたわらひました。
「発破かけだら、雑魚撒ざこまかせ。」嘉助が、河原の砂っぱの上で、ぴょんぴょんはねながら、高く叫びました。
 みんなは、とった魚を、石で囲んで、小さな生洲をこしらえて、生き返っても、もう遁げて行かないやうにして、また上流のさいかちの樹へのぼりはじめました。ほんたうに暑くなって、ねむの木もまるで夏のやうにぐったり見えましたし、空もまるで、底なしの淵のやうになりました。
 そのころ誰かが、
「あ、生洲、打壊ぶっこわすとこだぞ。」と叫びました。見ると、一人の変に鼻の尖った、洋服を着てわらじをはいた人が、手にはステッキみたいなものをもって、みんなの魚を、ぐちゃぐちゃ掻きまはしてゐるのでした。
「あ、あいづ専売局だぞ。専売局だぞ。」佐太郎が云ひました。
「又三郎、うなのとった煙草の葉めっけだんだぞ。うな、連れでぐさ来たぞ。」嘉助が云ひました。
「何だい。こわくないや。」又三郎はきっと口をかんで云ひました。
「みんな又三郎のごと囲んでろ囲んでろ。」と一郎が云ひました。
そこでみんなは又三郎をさいかちの樹のいちばん中の枝に置いてまはりの枝にすっかり腰かけました。
 その男はこっちへびちゃびちゃ岸をあるいて来ました。
「来た来た来た来た来たっ。」とみんなは息をころしました。ところがその男は、別に又三郎をつかまへる風でもなくみんなの前を通りこしてそれから淵のすぐ上流かみの浅瀬をわたらうとしました。それもすぐに河をわたるでもなく、いかにもわらじや脚絆の汚なくなったのを、そのまゝ洗ふといふふうに、もう何べんも行ったり来たりするもんですから、みんなはだんだん怖くなくなりましたがその代り気持ちが悪くなってきました。そこで、たうたう、一郎が云ひました。
「お、おれ先に叫ぶから、みんなあとから、一二三で叫ぶこだ。いいか。
 あんまり川を濁すなよ、
 いつでも先生せんせ云ふでなぃか。一、二ぃ、三。」
「あんまり川を濁すなよ、
 いつでも先生せんせ云ふでなぃか。」その人は、びっくりしてこっちを見ましたけれども、何を云ったのか、よくわからないといふようすでした。そこでみんなはまた云ひました。
「あんまり川を濁すなよ、
 いつでも先生せんせ、云ふでなぃか。」鼻の尖った人は、すぱすぱと、煙草を吸ふときのやうな口つきで云ひました。
「この水呑むのか、ここらでは。」
「あんまり川をにごすなよ、
 いつでも先生せんせ云ふでなぃか。」鼻の尖った人は、少し困ったやうにして、また云ひました。
「川をあるいてわるいのか。」
「あんまり川をにごすなよ、
 いつでも先生せんせ云ふでなぃか。」その人は、あわてたのをごまかすやうに、わざとゆっくり、川をわたって、それから、アルプスの探検みたいな姿勢をとりながら、青い粘土と赤砂利の崖をななめにのぼって、崖の上のたばこ畠へはいってしまひました。すると又三郎は「何だいぼくを連れにきたんぢゃないや」と云ひながらまっ先にどぶんと淵へとび込みました。
 みんなも何だかその男も又三郎も気の毒なやうな、おかしながらんとした気持ちになりながら、一人づつ木からはね下りて、河原に泳ぎついて、魚を手拭につつんだり、手にもったりして、うちに帰りました。

 

    九 月 八 日

 次の朝授業の前みんなが運動場で鉄棒にぶら下ったり棒かくしをしたりしてゐますと少し遅れて佐太郎が何かを入れた笊をそっと抱えてやって来ました。「何だ。何だ。何だ。」とすぐみんな走って行ってのぞき込みました。すると佐太郎は袖でそれをかくすやうにして急いで学校の裏の岩穴のことろへ行きました。みんなはいよいよあとを追って行きました。一郎がそれをのぞくと思はず顔いろを変へました。それは魚の毒もみにつかう山椒の粉で、それを使ふと発破と同じやうに巡査に押へられるのでした。ところが佐太郎はそれを岩穴の横の萱の中へかくして、知らない顔をして運動場へ帰りました。そこでみんなはひそひそ時間になるまでひそひそその話ばかりしてゐました。
 その日も十時ごろからやっぱり昨日のやうに暑くなりました。みんなはもう授業の済むのばかり待ってゐました。二時になって五時間目が終ると、もうみんな一目散に飛びだしました。佐太郎も又笊をそっと袖でかくして耕助だのみんなに囲まれて河原へ行きました。又三郎は嘉助と行きました。みんなは町の祭のときの瓦斯のやうな匂のむっとする、ねむの河原を急いで抜けて、いつものさいかち淵に着きました。すっかり夏のやうな立派な雲の峰が、東でむくむく盛りあがり、さいかちの木は青く光って見えました。みんな急いで着物をぬいで、淵の岸に立つと、佐太郎が一郎の顔を見ながら云ひました。
「ちゃんと一列にならべ。いいか。魚浮いて来たら、泳いで行ってとれ。とった位るぞ。いいか。」小さなこどもらは、よろこんで顔を赤くして、押しあったりしながら、ぞろっと淵を囲みました。ぺ吉だの三四人は、もう泳いで、さいかちの木の下まで行って待ってゐました。
 佐太郎、大威張りで、上流の瀬に行って笊をぢゃぶぢゃぶ水で洗ひました。みんなしぃんとして、水をみつめて立ってゐました。又三郎は水を見ないで、向ふの雲の峰の上を通る黒い鳥を見てゐました。一郎も河原に坐って石をこちこち叩いてゐました。ところがそれからよほどたっても、魚は浮いて来ませんでした。
 佐太郎は大へんまじめな顔で、きちんと立って水を見てゐました。昨日発破をかけたときなら、もう十疋もとってゐたんだと、みんなは思ひました。またずゐぶんしばらくみんなしぃんとして待ちました。けれどもやっぱり、魚は一ぴきも浮いて来ませんでした。
「さっぱり魚、浮ばなぃな。」耕助が叫びました。佐太郎はびくっとしましたけれども、まだ一しんに水を見てゐました。
「魚さっぱり浮ばなぃな。」ぺ吉が、また向ふの木の下で云ひました。するともうみんなは、がやがや云ひ出して、みんな水に飛び込んでしまひました。
 佐太郎は、しばらくきまり悪さうに、しゃがんで水を見てゐましたけれど、たうたう立って、
「鬼っこしないか。」と云った。「する、する。」みんなは叫んで、じゃんけんをするために、水の中から手を出しました。泳いでゐたものは、急いでせいの立つところまで行って手を出しました。一郎も河原から来て手を出しました。そして一郎は、はじめに、昨日あの変な鼻の尖った人の上って行った崖の下の、青いぬるぬるした粘土のところを根っこヽヽにきめました。そこに取りついてゐれば、鬼は押へることができないといふのでした。

           

それから、はさみ無しのヽヽヽヽヽ一人ひとり
まけかちヽヽヽヽで、じゃんけんをしました。ところが、悦治はひとりはさみを出したので、みんなにうんとはやされたほかに鬼になった。悦治は、唇を紫いろにして、河原を走って、喜作を押へたので、鬼は二人になりました。それからみんなは、砂っぱの上や淵を、あっちへ行ったり、こっちへ来たり、押へたり押へられたり、何べんも鬼っこヽヽをしました。
 しまひにたうたう、又三郎一人が鬼になりました。又三郎はまもなく吉郎きちらうをつかまへました。みんなは、さいかちの木の下に居てそれを見てゐました。すると又三郎が、「吉郎君、きみは上流かみから追って来るんだよ、いゝか。」と云ひながら、じぶんはだまって立って見てゐました。吉郎は、口をあいて手をひろげて、上流から粘土の上を追って来ました。みんなは淵へ飛び込む仕度をしました。一郎は楊の木にのぼりました。そのとき吉郎が、あの上流の粘土が、足についてゐたためにみんなの前ですべってころんでしまひました。みんなは、わあわあ叫んで、吉郎をはねこえたり、水に入ったりして、上流の青い粘土の根に上ってしまひました。
「又三郎、。」嘉助は立って、口を大きくあいて、手をひろげて、又三郎をばかにしました。すると又三郎は、さっきからよっぽど怒ってゐたと見えて、「ようし、見てゐろよ。」と云ひながら、本気になって、ざぶんと水に飛び込んで、一生けん命、そっちの方へ泳いで行きました。又三郎の髪の毛が赤くてばしゃばしゃしてゐるのにあんまり永く水につかって唇もすこし紫いろなので子どもらは、すっかり恐がってしまひました。第一、その粘土のところはせまくて、みんながはいれなかったのにそれに大へんつるつるすべる坂になってゐましたから、下の方の四五人などは、上の人につかまるやうにして、やっと川へすべり落ちるのをふせいでゐたのでした。一郎だけが、いちばん上で落ち着いて、さあ、みんな、とか何とか相談らしいことをはじめました。みんなもそこで、頭をあつめて聞いてゐます。又三郎は、ぼちゃぼちゃ、もう近くまで行きました。みんなは、ひそひそはなしてゐます。すると又三郎は、いきなり両手で、みんなへ水をかけ出した。みんながばたばた防いでゐましたら、だんだん粘土がすべって来て、なんだかすこうし下へずれたやうになりました。又三郎はよろこんで、いよいよ水をはねとばしました。するとみんなは、ぼちゃんぼちゃんと一度に水にすべって落ちました。又三郎は、それを片っぱしからつかまへました。一郎もつかまりました。嘉助がひとり、上をまはって泳いで遁げましたら、又三郎はすぐに追ひ付いて、押へたほかに、腕をつかんで、四五へんぐるぐる引っぱりまはしました。嘉助は、水を呑んだと見えて、霧をふいて、ごほごほむせて、
「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と云ひました。小さな子どもらはみんな砂利に上ってしまひました。又三郎は、ひとりさいかちの樹の下に立ちました。
 ところが、そのときはもう、そらがいっぱいの黒い雲で、楊も変に白っぽくなり、山の草はしんしんとくらくなりそこらは何とも云はれない、恐ろしい景色にかはってゐました。
 そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思ふと、まるで山つなみのやうな音がして、一ぺんに夕立がやって来ました。風までひゅうひゅう吹きだしました。淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなってしまひました。みんなは河原から着物をかかへて、ねむの木の下へ遁げこみました。すると又三郎も何だかはじめて怖くなったと見えてさいかちの木の下からどぼんと水へはいってみんなの方へ泳ぎだしました。すると誰ともなく
「雨はざっこざっこ雨三郎
 風はどっこどっこ又三郎」 と叫んだものがありました。みんなもすぐ声をそろへて叫びました。
「雨はざっこざっこ雨三郎
 風はどっこどっこ又三郎」
 すると又三郎はまるであわてて、何かに足をひっぱられるやうに淵からとびあがって一目散にみんなのところに走って来てがたがたふるえながら
「いま叫んだのはおまへらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんなは一しょに叫びました。ぺ吉がまた一人出て来て、「そでない。」と云ひました。又三郎は、気味悪さうに川のはうを見ましたが色のあせた唇をいつものやうにきっと噛んで「何だい。」と云ひましたが、からだはやはりがくがくふるってゐました。
そしてみんなは雨のはれ間を待ってめいめいのうちへ帰ったのです。

 

     九 月 十 二 日、 第 十 二 日、

 「どっどど どどうど どどうど どどう
 青いくるみも、吹きとばせ
 すっぱいくゎりんもふきとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう
 どっどど どどうど どどうど どどう」

先頃又三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中で又きいたのです。
 びっくりして跳ね起きて見ると外ではほんとうにひどく風が吹いて林はまるで咆えるやう、あけがた近くの青ぐろい、うすあかりが障子や棚の上の提灯箱や家中一っぱいでした。一郎はすばやく帯をしてそして下駄をはいて土間を下り馬屋の前を通って潜りをあけましたら風がつめたい雨の粒と一緒にどうっと入って来ました。
馬屋のうしろの方で何か戸がばたっと倒れ馬はぶるるっと鼻を鳴らしました。一郎は風が胸の底まで滲み込んだやうに思ってはあと強く息を吐きました。そして外へかけだしました。外はもうよほど明るく土はぬれて居りました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えてそれがまるで風と雨とで今洗濯をするとでも云ふ様に烈しくもまれてゐました。青い葉も幾枚も吹き飛ばされちぎられた青い栗のいがは黒い地面にたくさん落ちてゐました。空では雲がけわしい灰色に光りどんどんどんどん北の方へ吹きとばされてゐました。遠くの方の林はまるで海が荒れてゐるやうにごとんごとんと鳴ったりざっと聞えたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ風に着物をもって行かれさうになりながらだまってその音をきゝすましぢっと空を見上げました。
すると胸がさらさらと波をたてるやうに思ひました。けれども又ぢっとその鳴って吠えてうなってかけて行く風をみてゐますと今度は胸がどかどかなってくるのでした。昨日まで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしてゐた風が今朝夜あけ方俄かに一斉に斯う動き出してどんどんどんどんタスカロラ海床の北のはじをめがけて行くことを考へますともう一郎は顔がほてり息もはあ、はあ、なって自分までが一緒に空を翔けて行くやうな気持ちになって胸を一ぱいはって息をふっと吹きました。
「あゝひで風だ。今日はたばこも粟もすっかりやらへる。」と一郎のおぢいさんが潜りのところに立ってぢっと空を見てゐます。一郎は急いで井戸からバケツに水を一ぱい汲んで台所をぐんぐん拭きました。それから金だらひを出して顔をぶるぶる洗ふと戸棚から冷たいごはんと味噌をだしてまるで夢中でざくざく喰べました。
「一郎、いまお汁できるから少し待ってだらよ。何して今朝そったに早く学校へ行がなぃやなぃがべ。」
 お母さんは馬にやる を煮るかまどに木を入れながらききました。
「うん。又三郎は飛んでったがも知れなぃもや。」
「又三郎って何だてや。鳥こだてが。」
「うん又三郎って云ふやづよ。」一郎は急いでごはんをしまふと椀をこちこち洗って、それから台所の釘にかけてある油合羽を着て下駄はもってはだしで嘉助をさそひに行きました。嘉助はまだ起きたばかりで「いまごはんだべて行ぐがら。」と云ひましたので一郎はしばらくうまやの前で待ってゐました。
 まもなく嘉助は小さい簑を着て出てきました。
烈しい風と雨にぐしょぬれになりながら二人はやっと学校へ来ました。昇降口からはいって行きますと教室はまだしいんとしてゐましたがところどころの窓のすきまから雨が板にはいって板はまるでざぶざぶしてゐました。一郎はしばらく教室を見まはしてから「嘉助、二人して水掃ぐべな。」と云ってしゅろ箒をもって来て水を窓の下の孔へはき寄せてゐました。
するともう誰か来たのかといふやうに奥から先生が出てきましたがふしぎなことは先生があたり前の単衣をきて赤いうちわをもってゐるのです。「たいへん早いですね。あなた方二人で教室の掃除をしてゐるのですか。」先生がきゝました。
「先生お早うございます。」一郎が云ひました。
「先生お早うございます。」嘉助も云ひましたが、すぐ
「先生、又三郎今日来るのすか。」ときゝました。先生はちょっと考へて
「又三郎って高田さんですか。えゝ、高田さんは昨日お父さんといっしょにもう外へ行きました。日曜なのでみなさんにご挨拶するひまがなかったのです。」「先生飛んで行ったのすか。」嘉助がききました。「いいえ、お父さんが会社から電報で呼ばれたのです。お父さんはもいちどちょっとこっちへ戻られるさうですが高田さんはやっぱり向ふの学校に入るのださうです。向ふにはお母さんも居られるのですから。」
「何して会社で呼ばったべす。」一郎がきゝました。
「こゝのモリブデンの鉱脉は当分手をつけないことになった為なさうです。」
「さうだなぃな。やっぱりあいづは風の又三郎だったな。」
 嘉助が高く叫びました。宿直室の方で何かごとごと鳴る音がしました。先生は赤いうちわをもって急いでそっちへ行きました。
二人はしばらくだまったまゝ相手がほんたうにどう思ってゐるか探るやうに顔を見合せたまゝ立ちました。
 風はまだやまず、窓がらすは雨つぶのために曇りながらまだがたがた鳴りました。


 上記本文はオリジナル草稿を横書きに改めたものです。「新校本宮澤賢治全集」(筑摩書房)本文を基本とし原文の仮名遣いの間違いはそのままとしました。数ヶ所に亘る1字または2字の欠落部分は原文自体の空白です。

 オリジナル草稿との主な違いは次の通りです。タイトルの「風野」を「風の」と改め、9月2日、原文では二ヶ所にわたって「幸一」とあるのを「孝一」と改めました。9月4日の次の章は9月6日であるとしました。9月7日の「鮒」は原文では「魚へんに府」です。9月8日、傍点を付ける都合上「鬼は押へることができないといふのでした。」の後で改行しました。9月7、8日の総ルビ付きの部分は新校本の判断に従ってほとんどルビなしに改めました。

 現代がな本文には原文にない振り仮名も付けてあります。

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